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ウェブスターの家系 Webster Lineage [Marginalia 余白に]

このあいだ「『あしながおじさん』 Asa の謎 Asa Mystery [Daddy-Long-Legs] 」で適当な記憶で書いたウェブスター辞典のエピソードは、もう少し詳しく書くと、こういう話です。ヴァッサー大学時代、英文学と経済学を専攻したJean Webster は、成績は良かったけれど、ペーパーの英語の綴りが出鱈目だった。あるときに教授が呆れて、"On what authority do you spell thus?" とたぶん修辞疑問的に問い詰めると、"Webster." と答えたという話です。

  これは、アメリカの有名な辞書編纂者のノア・ウェブスターを同姓のよしみで持ち出したのだと考えられ、ウィットに富んだ答えと了解されます。さらにノア・ウェブスターは綴り字改良運動(イギリス式ではなくて、アメリカニズムを良しとした)に力を注いだ人でもありましたし。

   ところが、そのあと(といったら数日間しかたっていないのですけれど)、先祖にノア・ウェブスターがいるみたいな記述をどこかで読んで、え゛~っ、だじゃれじゃないの、だじゃれじゃない、の、と魂消[たまげ と読んで]ました。

  それで、必死こいて調べてみたのですが、どうにも出てきません、lineage が。錯綜して。まあ、ラインとは言えそんなものでしょうが。

  とりあえず、元のノア・ウェブスターのほうからメモってみます(ノア・ウェブスターの先祖がウィリアム・ブラッドフォードだとかいう話はとりあえずおいておきます)。

I.  Noah Webster (1758-1843) はRebecca Greenleaf (1766-1847) と1789年に結婚して8人の子供が生まれました。

(1) Emily Schotten (1790-1861)→ William W. Ellsworth と結婚
その娘のEmily Ellsworth は、ニューヨーク州ハートフォードのTrinity CollegeHobart College の学長となる Abner Jackson と結婚

(2) Frances Julianna (1793-1869)

(3) Harriet (1797-1844)

(4) Mary (1799-1847)

(5) William Greenleaf (1801-69)

(6) Eliza Steele (1803-88) → Henry Jones (1801-78) と結婚
その娘 Emily Ellsworth Jones (1827-69) は Daniel Jones Day と結婚
さらにその娘の息子 Robert W. Day (b.1854; Buffalo, NY 在)
さらにその娘の息子の息子 Rodney W. Day (b. 1883)

(7) Henry (1806-07)

(8) Louisa (b. 1808)

 

II.  ジーン・ウェブスターの父=Charles Luther Webster (born Sept. 24, 1851, at Charlotte, Chatutauqua Co., NY - April 26, 1891、39歳で死去)
CharlesWebster.jpg
Charles Luther Webster (1851-91) image via "Charles Webster" <http://www.twainquotes.com/interviews/WebsterInterview.html>

ジーン・ウェブスターの母=Annie Moffett Webster (born July 1, 1852, at St. Louis, MO - March 24, 1950) ――この人が、マーク・トウェイン(本名 Samuel Clemens, 1835-1910)の姪にあたります。詳しく書くと、サミュエル・クレメンズの妹のPamela Clemens (1827-1904) がWilliam Moffett と結婚して Pamela Clemens Moffett となり、できた娘が Annie Moffett 。長生きします(-1950)。

ふたりは1875年9月28日Fredonia, NY で結婚(証人 S. E. Moffett と Alice T. Bradish)。3人の子供が生まれました。

(1) Alice Jane Webster=Jean Webster  (born July 24, 1876, at Fredonia, Chatutauqua Co., NY) → 1915年9月7日Washington Green, CT で  Glenn [Glynnは誤り] Ford McKinney (1869-1934) と結婚、1916年6月10日夜、娘Jean を出産、翌朝死亡〔前の記事で二日後と書きましたがそれは誤りでした〕。娘のJean Webster McKinney は1937年7月にRalph Connor と結婚し Jean McKinney Connor となる。

(2) William Luther Webster (born Oct. 15, 1878, at Fredonia) → 1911年2月11日ロンドンで Charlotte Hudgell と結婚。1945年3月死去(?)。

(3) Samuel Charles Webster (born July 8, 1884, at 214 W. 125 St., New York City) → 1920年6月15日New York のUniversity Place Church でDoris Webb (? - 1967年7月9日)と結婚。1962年3月24日死去。

 

ここで行き詰りました。そして、ヴァッサー大学の Jean Webster McKinney Family Papers (これは、ウェブスター家とマーク・トウェイン関係と、コナー家の三つの家系の資料から成っているわけですが、1977年にウェブスターの娘夫婦の寄贈ののちに、整理されて、少なくともWeb上ではMark Twain Papers と Jean Webster Papers というふうに分類されて中味が示されているようです(1977年に印刷された20ページのパンフレットは Alan Simpson, Mark Twain Goes Back to Vassar: An Introduction to the Jean Webster McKinney Family Papers [Published for the dedication of the Francis Fitz Randolph Rare Book Room in the Helen D. Lockwood Library, May 6 1977] )。確かに、というか、アカデミックにはマーーク・トウェイン関係の資料としての価値が高いのかもしれません。

  ともあれ、そのヴァッサー大学の資料のリストを見ていると、たとえばウェブスター家(の誰かはわかりませんが)の人がウェブスターの家系に関する新聞記事などを切り抜いて保存したり、家系をメモして残しているらしいのがわかります。いや、なぜかWebster Papers のほうではなくて Clemens Papers のほうに、Webster 家系がらみの資料が入っていたりします。Samuel L. Clemens Papers は、1908年のNoah Webster 生誕150周年のときのNew York Times の記事の切り抜きがあったりする〔これらはn. d. (日付なし/不明)となっているけれど、New York Times のarchive を検索すると読めますし日付もわかります――たとえば "Noah Webster's Sturdy Stock" October 3, 1908 <http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9406E1D9173EE033A25750C0A9669D946997D6CF>〕し、以下のものがあったりもする――

26.40 [DD.30] Births in Webster family, list beginning with Benjamin Webster, born 27 Jan 1798
26.41 [DD.31] Marriages in Webster Family" list beginning with marriage of Benjamin Webster to Sophia Chandler, 29 May 1823
26.42 [DD.32]

Webster genealogy chart, n.d.

 

  しかし、このBenjamin Webster から調べても、不明でした。ヴァッサーに行けばいいのでしょうがw ああ、アメリカは遠い。

III.  それでさらにヴァッサーの Webster McKinney Family Papers を渉猟し、あとマーク・トウェインの書簡集の注釈とかを読んだりしてあれこれ調べると、とりあえず、以下のことは正しいことではないかと判断されます(のでメモっておきます)。

・Jean Webster の父親の Charles Luther Webster の母親はMaria Whitney Webster (1906年死去)。

・ウェブスター家の伝承では、このMaria Whitney Webster はイェール大学のWhitney教授の親戚であるCalvin Whitney の娘。〔実は39歳のマーク・トウェインは、姪アニーの結婚について心配して、求婚者のCharles Luther Webster の人物についての照会をWilliam D. Whitney 教授に求める手紙を1875年1月16日に書いています (Mark Twain's Letters: 1874-1875, p. 353)〕。 

・Jean Webster の父親の Charles Luther Webster の父親(つまり父方のおじいさん)の名は Luther Webster。

・New York 州 Charlotte 在の Mrs. Calvin Whitney 宛の手紙を Maria [=Mrs. Luther Webster]は1840年代・50年代に確かに書いている。

・Ellen Whitney と Mrs. Luther Webster は姉妹。

・Mrs. Calvin Whitney の娘は Charlotte。

・Mrs. Calvin Whitney の名前は Theresa Janes Whitney。

・Theresa Janes Whitney と Parthena Janes は姉妹。

  ま、どんどんわけがわからん人が増えていきそうなので、やめておきます。

    ともあれ、ノア・ウェブスターの直系ではないようです。

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Webster Family Bible Records|Webster Genealogy|Webster Surname <http://www.ancestorhunt.com/genealogy_webster.htm>

Guide to the Samuel L. Clemens Papers, 1796-1984 (bulk 1853-1909) <http://specialcollections.vassar.edu/findingaids/mckinney_clemens.html> 〔ヴァッサー大学〕

Charles Webster - short biography and interview <http://www.twainquotes.com/interviews/WebsterInterview.html> 〔www.twainquotes.com


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マリ・バシュキルツェフの三月の風が吹かない春の絵  Marie Bashkiertseff's Spring Without a March Wind [Marginalia 余白に]

『あしながおじさん』の2年生の3月5日の手紙の冒頭の「三月の風が吹いていて、空いっぱいに、重たく、黒い雲が動いています。松の並木のカラスたちが騒いでいます。それはうっとり酔わせるような、うきうき快活にさせるような、呼んでいるようなざわめき。本を閉じ、丘を駆けって風と競争をしたくなります」 と響きあっているかもしれないと、先日の記事「三月の風が吹いている There Is a March Wind Blowing [Daddy-Long-Legs]」で書いた、画家マリ・バシュキルツェフ (1858-1884) の日記は、その直前には自分の病気のことが書かれ、あとには絵の話が書かれています。

     For a long time now I have been saying to myself that I was going to be ill, without really believing it.  But enough of this, I should not have had the opportunity to give you all these insignificant details, if it were not that I have been waiting for my model, and I might as well spend the time grumbling as doing nothing.
     There is a March wind blowing, and the sky is gray and lowering.
     I began my picture a rather large one in the old orchard at Sevres yesterday.  It is a young girl seated under an apple-tree in blossom, that stands, with other fruit-trees in blossom also, in a grassy field sown with
violets and little yellow flowers, like stars.  The girl sits with half-closed eyes, in a revery.  She leans her head in the palm of her left hand, while her elbow rests upon her knee.
     The treatment is to be simple, and the spectator must be made to share in the intoxication produced in the girl by the breath of Spring.  The sunlight plays among the branches of the trees.
     The picture is to be about five feet in width, and a little more in height.
     So, then, my picture has only received a number 3; and it will not be even hung upon the line not even that !
     This has caused me a feeling of discouragement, hopeless and profound.  No one is to blame, however, if I am not gifted with genius.  And this feeling of discouragement shows me that if I ceased to have faith in my genius I could no longer live.  Yes, if the hope of success should again fail me, as it did this evening, then, indeed, there would be nothing left me but to die.
[Marie Bashkiertseff, Journal, March 24, 1884.  Mary J. Serrano, trans., Bashkiertseff: The Journal of a Young Artist, 1860-1884 (New York: Cassell, 1889), pp. 375-376]

    野上豊一郎の訳を漢字・仮名遣いを変えて書き写しておきます。――

  長い前から、私はそうとは信じてもいない病気で脅かされていた。・・・・・・実際! ・・・・・・私はそうしたみじめさを残らずあなた方に物語っているような時間はなかったはずかもしれない。しかし私は自分のモデルを待っているのだ。そうして何もしないでいると、しきりに嘆息ばかりしなければならぬ。
  そうして灰色がかった重苦しい空をして、三月の風が吹いている。
  私は昨日かなり大きなひとつの絵に着手した。それはセーヴルの物古[ものふ]りた果樹園で、一人の少女が、満開の一本のリンゴの樹の下に座っている絵である。ひとすじの小道は遠くのほうへ消え、そうしていたるところに花をつけた果樹の枝枝が茂り、草は青青として、スミレや名も知らぬ黄色い小さな草花が咲いている。座り込んで夢みている女は、眼をつぶり、頭を左手で支えて、ひじをひざにたてている。
  これは非常に素朴なものになるに違いない。そうして女を夢みさせているところの春の発露を感じさせるようにしなければならぬ。
  日射しを枝枝の間に見せるべきである。これは幅が二メートルで、縦はもう少し高い。
  ときに、私は三号の番号で入選したというにすぎない。そうして私は自分の絵を長押[シメエズ 〔=なげし〕]の上に掲げられないようなことに、なりはしないか?
  そうなっては勇気も尽き果て、望みも何もありはしない。それも誰の咎というではなく、私に才能〔天才〕のないからのことなのだ。・・・・・・そうだ、もし私が自分の芸術に希望を失なったら、私は即座に死んでしまうだろうということを、これは真実私に示してくれた。そうしてもしもこの希望が、今夜のようになくなってしまったとしたら・・・・・・そうだ、決して誇張していうわけではないが、そうなれば死よりほかに道はないであろう。〔『バシュキルツェフの日記』下巻707-709頁〕

  日記は、一日のいろいろな時間に書き付けられる場合があるようで、『あしながおじさん』のジュディーの手紙は何時とか就寝前とか時間を書いたりしてくれるので思考のまとまりがわかるのですが、バシュキルツェフの日記は切れ目やつながりがよくわからんです(同じ日付の日記が並んでいる場合もありますが)。 

    さて、三等に入選したのは3月16日に送った『Le Meetieg つどひ』という絵です。19日にセーヴルで果樹園を見つけ、新しい絵を描こうとしていることが書かれていました。ウィキペディアの「マリ・バシュキルツェフ」によれば、「パリの貧民外街の子供たちの姿を描いた『集合』や、女性画家仲間の群像である『アトリエにて』はとりわけ名高い」と書かれ、画像も載っています。

  で、果樹園の絵ですけれど、これだと思われます。この絵は「一人の女が樹に寄って、眼を閉じ、美しい夢の中にいるように微笑んでいる」春の絵を描こう、という夢想(1883年5月18日)が元になっていると思います。――

  私は装飾用の鏡板に、春を描こう。一人の女が樹に寄って、眼を閉じ、美しい夢の中にいるように微笑んでいる。そのまわりの景色はいかにもデリケートで、青草は柔らかく、バラは青みを帯び、リンゴも桃も花盛りで、木の芽も吹こうとしている。そうして魅惑にみちた色彩で春をしのばせるのである。
  春を誠実に描きあげた者はかつてなかった。なるほど春景色を描いた作品は最近にも数々ある。しかしそれは老人や、洗濯女や、らい患者などを混ぜ込んだものだ。私は、断然、「魅惑ある色調」をもってしたい。
  幾千という数知れぬ春は描かれた。でも手先の器用さを見せた下絵のような景色ばかりであった。私のように考えるかもしれないと思われる者は、バスチアン〔ジュール・バスチアン=ルパージュ Jules Batien-Lepage, 1848-1884〕をおいて他にはない。その彼もまだそうした春は描いていない。――その女は、調子と、芳香と、小鳥の歌とのあらゆる諧調がわかる様子をしていなければならぬ。そこには太陽が輝いていなければならぬ。――バスチアンは蔭になっている灰色がかった戸外を描いたばかりだ。
  私はそこに日光を欲する。そうして私はそれをニースへ行って、どこかの果樹園で描こう。もし非常に詩趣のある果樹園が見つかったら、女を裸体にするとしよう。
  ちょうどグルナアド辺で見るように、ここにかしこに太陽の光斑を置き、スミレのくさむらの間をわけて彼女の足もとを流れ行く小川のささやきを耳に聞かせるようにしなければならぬ。
  私は春には歌って魂に沁み入るような調子を要求する。私は肌触りが柔らかくて人目を奪うような青草と、青味がかった蠱惑にみちたバラと、灰白でない黄色味とを必要とする。
  妙なる調べの饗宴。それは人目を奪うような色彩をもって描かれ、加うるにここにかしこに投ぜられる太陽の光斑は画面に生命を与え、陰影にはそこから一種の神秘が始まるかと思わせるようにしなければならぬ。〔下巻591-592〕
  

Spring_MarieBashkirtseff_fruehling (1884).jpg
Marie Bashkiertseff, Spring [Printemps] (1884)

  このセーヴルの絵は夏までかかってもなかなか仕上がらず、「景色はもうどうすることもできないまでに変わってしまった」と嘆いたり(5月25日)、「あの花の咲いたリンゴの樹やスミレの花、それがもう私の興味をひかない! そうしてあの仮寝している百姓女! こんなものは1メートルくらいの画布で十分だ。それを私は等身大に描いている! まちがった! そうして三月[みつき]も水に流してしまった!」と書いたり(6月17日)、「セーヴルの絵がここに、アトリエに来ている。――これは『四月』と題してもよい――それはどうでもよいが、この四月は私には実によくないように思われる!!! 背景が強く同時に汚い緑になっている。女はまるきり私の思っていたようなものになっていない」(7月4日)と記したりしています。肺を侵されたマリは、病み衰えて十月末に世を去ります。25歳の若さでした。

   


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オフィーリアと柳 Ophelia and the Willow Tree [Marginalia 余白に]

ジュディーが柳の木のマタから手紙を書くのは、2年生の8月10日だけれど、その5ヶ月前の3月5日付の手紙(「3月の風が吹いています」で始まる手紙であり、「いいじゃないの幸せならば」を引用する手紙です)では、古典といえばいま『ハムレット』を読んでいます、というノリで、夜毎に王妃オフィーリアとして夢見る孤児院の改革運動について言及していました(国政はダンナのハムレットに任せて、じぶんは慈善運動に関わっていますみたいな、そして、結辞は "Yours most graciously, /Ophelia /Queen of Denmark" なのでした)。そして春休みにニューヨークに出たとき(マーサ・ワシントンホテルに泊まって)にも『ハムレット』の舞台を観劇して感激しています。

  ですから、そのわずか数ページ後、数ヶ月後のロック・ウィローで柳の木が出てきたときに、オフィーリアと柳のイメジが思い浮かばざるを得ないような読者を作者が想定していなかったといえなくはなかろうと思わずにいられないと考えられなくはありませんと書かざるを得ないのです。

  気が狂ったと思われるオフィーリア(ちなみにこの「狂う女」というのはもしかするとひそかに『あしながおじさん』にひそんでいるモティーフかもしれません・・・・・・がいいかげんなことは言えないので、いいかげんな憶測のままにしておきますが)は、川辺に生えた柳の木から川に落ちます。

  『ハムレット』4幕7場で 王妃 Queen Gertrude が語るオフィーリア水死の状況――

Queen Gertrude:
There is a willow grows aslant a brook,
That shows his hoar leaves in the glassy stream.
There with fantastic garlands did she come
Of crowflowers, nettles, daisies, and long purples,
That liberal shepherds give a grosser name,
But out cold maids do dead men's fingers call them.
There on the pendant boughs her corronet weeds
Clamb'ring to hang, an envious silver broke,
When down her weedy trophies and herself
Fell in the weeping brook.  Her clothes spread wide
And, mermaid-like, awhile they bore her up;
Which time she chaunted snatches of old tunes,
As one incapable of her own distress,
Or like a creature native and indued
Unto that element; but long it could not be
Till that her garments, heavy with their drink,
Pull'd the poor wretch from her melodious lay
To muddy death.

一本の柳が小川にはすかいに伸びて生え
川は柳の白い葉を鏡のような流れに映しています
そこで、オフィーリアはきれいな花環をいくつも上手につくりました
キンポウゲにイラクサ、ヒナギク、それから、ムラサキラン、
これ、慎みのない羊飼いたちはもっと下品な名をつけているけれど
さめた娘たちは「死人の指」と呼んでいます
その花冠を柳の垂れさがった枝にかけようと
よじのぼったとき、枝は意地悪く折れて、
花冠を抱いたまま、あの子は
すすり泣く小川に落ちてしまいました。裳裾がひろがり、
しばらくはマーメイドのように川面を浮かびただよいに浮かんで
そのあいだ切れ切れに古い歌を口ずさんでいました
自分の不幸を嘆くことを知らぬひとのように
でなければ水に生まれ、水に
すむもののように。しかし、それも長くは続かず
服が、水を飲んで重たくなり、
かわいそうな歌うあの子を泥の死へと
引き込んでしまいました。

    自分で訳し出したら、やたら時間がかかってしまった。

   このオフィーリアの死を描いた絵画は、ラファエロ前派のジョン・エヴァレット・ミレー (John Everett Millais, 1829-96) の有名な油絵 (1852) を筆頭に、John William Waterhouse (1849-1917) [1889, 1894]、Arthur Hughes [1865]、Dominico Tojetti (1817-92) [1880]、W. G. Simmonds、Harold Copping あるいはArthur Prince Spear [1926] や Odilon Redon やArthur Rackham など、いろいろあって、西洋で名のある画家に描かれたもののたいがいは次のサイトで見ることができるように思われます。――

John Moore, "Ophelia by John Everett Millais: A Critique of a Shakespeare-Related Painting"

Alan R. Young, "Visual Representations of Hamlet, 1709-1900"

  前者はミレーの絵について、詳しい資料となっていますが、下におまけで、オフィーリアのさまざまな絵画の画像と説明があります。後者は劇全体にわたる長いテキストですが、だいぶ下のほうの "Ophelia's madness" と "Ophelia's Death" の見出しのあたりを参照。

  えーと、このふたつのサイトにない、ラッカムと、あと人魚風のもの2種と日本人のをひとつだけ補遺的に掲げておきます。

  あ、いやその前に日本人のブログで22枚オフィーリアが掲載されているもの――

オフィーリアLife Style Concierge

さらにその楓さんに導かれて―― 

オフィーリア 〔『ヴァーチャル絵画館』 in 『タイムライン』

もうひとつお気に入りに入っていました。ミレーが増幅させたオフィーリアのイメジ――

オレンジのR+//シェークスピアの『ハムレット』xミレイの『オフィーリア』xドラロージュの『若き殉教者の娘』

〔もうひとつ日本人のブログを追加です。☆ジョン・エヴァレット・ミレイ『オフィーリア』:カイエ 2005.11.15・・・・・・メモっておくと、個人的には鏑木清方の『狂乱のオフェリア』という題の挿絵が気になっているのですが

  ううむ。ハゲシク広がり収斂しないですね。そのうちヒマができたら、画像だけのページをつくりますヮ。

WS000180.JPG
『草枕絵巻』の1枚 山本麻佐之〔丘人〕『水の上のオフェリア〔美しき屍〕』 (1926)――奈良国立博物館の「写真検索システム」 で松岡映丘一門による3巻本『草枕絵巻』の写真が見られます・・・・・・オフィーリアは巻二に載ってます。

  あ゛、これ柳がないですね。

  やっぱりアクマデ柳がらみで何枚か貼っておきます。そうだ、ラッカムをまず。――

WS000181.JPG
Arthur Rackham, illust., Charles Lamb, Tales from Shakespeare (1899; 1909)

 

RichardRedgrave,OpheliaWeavingHerGarlands(1842).jpg
Richard Redgrave, Ophelia Weaving Her Garlands (1842)

   太い柳の木に腰をかけた状態で花冠を織るオフィーリアという構図の絵があります。しかし太いなあ。

Ophelia,byJohnWilliamWaterhouse(1849-1917),1894.jpg
John William Waterhouse, Ophelia (1894)

   こちらは幹が細くなっていますが、2枚とも物語イメジ的には、川面に斜めに伸びた柳の木に腰をかけて花冠を編みあげ、それを木の先の枝にかけようとして、幹から太枝へと伝っていったときに枝が折れたと。

Ophelia,byJulesJosephLefebvre(1850).jpg
Jules Joseph Lefebvre, Ophelia (1850)

    違う構図です。柳の木には、あくまで花冠をかけるべく登っていったというイメジかしら。ミレーの絵もたぶんそうかもしれません。――

JohnEverettMillais,Ophelia(1852).jpg
John Everett Millais (1852)

   柳の枝が折れたさまを絵にしているフランスの画家もいます。――

AlexandreCabanel_Ophelia(1883).jpg
Alexandre Cabanel, Ophélie (1883)

    ところで、個人的にとても気になったのは、Arthur Hughes の2枚目のオフィーリアです。ミレーと同じ1852年に発表された1枚目 ("First Version") の半円状の絵は、上のJohn Moore, "Ophelia by John Everett Millais: A Critique of a Shakespeare-Related Painting" で詳しい説明があり、水面には黄色い汚れ "yellow slime" があり、コウモリ bat が飛び、不気味な様子を高めている、みたいに書かれています。コウモリがなかなか見つからなかったのですが、左下の柳の木の下にいるみたい。で、同じ Ophelia で "Second Version" と呼ばれる1864年か1865年の作品には別のものが描かれています――

ArthurHughes-ophelia2.jpg
image via Ogród Jane Austen / Galeria "Salonu Jane Austen"

   オフィーリアの背中を飛んでいる青い鳥です。

    あるいは、EssentialArt の画像がわかりやすいかもしれません―― <http://www.essentialart.com/acatalog/Arthur_Hughes_Ophelia_1865.html>

    そーなんです。

  『あしながおじさん』に出てくる devil down-head こと nuthatch です。――いちおう8月3日の「デビルダウンヘッド (2) Devil Down-Head」参照。アメリカの東海岸の方言で "devil down-head" と呼ばれるのは胸の色で区分した名で "white-breasted nuthatch" と"red-breasted nuthatch" で、羽はグレーぽいと思っていたのですけれど、Wikipedia を見ると、nuthatch は青い種類もいるみたい。とくにアメリカの red-breasted nuthatch は羽はblue gray なんですね。

Arthur_Hughes_Ophelia_1865(bird).jpg

    いえ、断定はできないです。でもツバメじゃないと思うんです。もちろんコウモリでも。

Red-breasted Nuthatch

 

  

 

 

 

 

 


image via "Red-breasted Nuthatch" 

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Moore, "Ophelia by John Everett Millais: A Critique of a Shakespeare-Related Painting" <http://www.shakessays.info/Essay%20on%20a%20shakespeare%20related%20piece%20of%20work%20-%20Ophelia%20by%20Millais.htm> [Shekespeare Studies, August 1999]

Alan R. Young, "Visual Representations of Hamlet, 1709-1900" <http://www.leoyan.com/global-language.com/ENFOLDED/YOUNG/> [See "Ophelia's madness," "Ophelia's Death"]

"Tate | Work In Focus: Millais's Ophelia" <http://www.tate.org.uk/ophelia/default.htm> [Tate Gallery HP]

"181.  The Ophelia of Suburbia - Hogsmill River, Ewell" <http://roadsofstone.com/2008/04/30/181-the-ophelia-of-suburbia-hogsmill-river-ewell//> 〔ミレーが1851年に写生した場所の探訪記 blog roads of stone, April 30, 2008〕

"Ophelia" <http://www.english.emory.edu/classes/Shakespeare_Illustrated/Ophelia.html> 〔たぶん大学の先生のページ、画家と画像の説明リンク〕

加藤明裕 「融合文化論 On Combination and Harmony of Cultures」 『融合文化研究』2 (2003): 62-70.  <http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/02/207.pdf> 〔山本丘人とミレーのオフィーリアの比較文化論的比較 pdf.〕

"Love ~ Tragedy --- The Pre-Raphaelites Muse Ophelia" <http://blog.creaders.net/ebola/user_blog_diary.php?did=16106> 〔『砂之痕』 中国語のページ〕

"The RSPB: Nuthatch" <http://www.rspb.org.uk/wildlife/birdguide/name/n/nuthatch/index.asp> 〔イギリスの nuthatch〕

8月25日追記  いったい、たとえば夏目漱石も書くように、ミレー(たち)のオフィーリアは川面を流れているんだろうか。流れていないような気がしてきました。流れていく様子を描いたら、元の柳の木から離れちゃうし・・・・・・(絵的にはw)。宿題にします。


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レイディー・ジェイン・グレイ・スクール Lady Jane Grey School [Marginalia 余白に]

  ちなみに『あしながおじさん』のジュディー・アボットのモデルは、ウェブスター自身である(とふつう読者には思われるし、それがまちがっているとは思われませんが)と同時に、ヴァッサー大学の同級生のアデレイド・クラプシー (Adelaide Crapsey, 1878-1914) だと言われています。クラプシーは1878年9月9日生まれでした。ちなみにジーン・ウェブスターは1876年7月24日の生まれですが、Fredonia のState Normal and Training School を卒業後にビンガムトンに出てLady Jane Grey School という寄宿学校で2年間学んだのち、もう一度フレドニアの学校のカレッジ部で1年学び〔ヴァッサーの人物事典はレイディー・ジェイン・グレイで3年間学んだと書いていますが、2年でおえて、フレドニアに戻ったというのが事実のようです――<http://vcencyclopedia.vassar.edu/alumni/jean-webster.html>〕、1897年に21歳でヴァッサーへ入学するのです。それで級友たちの多くより少し年上だったのでした。1901年にヴァッサーを卒業したときにウェブスターはもうじき25歳という年齢でした。

  レイディー・ジェイン・グレイというと、1553年に9日間だけの在位で the "Nine Days' Queen" と呼ばれる英国女王を思い起こすわけですけれど、この人は1554年に16歳の若さで処刑される悲惨な女の子です。なんでだろーと思ってあれこれ調べてみると、1900年ごろのアメリカ・カナダの大学一覧に情報が載っていました――

WS000183.JPG
Patterson's College and School Directory of the United States and Canada (1904)

  小さすぎて誰も読めないので、左のコラム、上から3分の2あたりを拡大します。

 WS000184.JPG

   Binghamton, Broome Co., pop. 39,647.
           Barlow School of Industrial Arts; indus.; co-
                   ed.; non-sect.; est.[ablished=創設] 1806; Vinton S. Paess-
                   ler, A. M., Prin.
           Binghamton School of Business; bus. and
                   aten.; Dr. Jno. F. Riley. Pres.
           Lady Jane Grey School, The; girls' boarding;
                   non-sect.; Mrs. Jane Grey Hyde, Prin.
           St. Joseph's Academy; girls' boarding; R. C.;
                   Sister M. Joseph, Prin.

     1904年の便覧ですが、このビンガムトン市というニューヨーク州南部の Broome 郡の郡庁所在地が、当時人口39467人だったという情報とともに、ザ・レイディー・ジェイン・グレイ・スクールが、女子の寄宿学校 (girls' boarding) であること、"non-sect" であること(宗教上の宗派の問題だと思います――ビンガムトンの最後の、やっぱり女子寄宿学校の聖ヨゼフ学院は "R. C." と書かれていますが、Red Cross ではなくてReformed Church (改革派教会)だと思うのですが)、そして学校長 (prin.[cipal]) が Mrs. Jane Grey Hyde であることが書かれています。ジェイン・グレイ・ハイドさんというアメリカ人女性が創設者なのね(たぶん)。

  この学校は、いわゆる "finishing school" でした。辞書的には「教養学校〔学院〕《若い女性が社交界に出るための準備をする私立学校》」。古い絵葉書がeBay に出品されていました。――

LadyJaneGreySchool.jpg
image via eBay <http://cgi.ebay.com/Lady-Jane-Grey-School,-Binghamton,-NY_W0QQitemZ380153688325QQcmdZViewItemQQimsxZ20090829?IMSfp=TL090829187003r13205>

     1906年の消印の絵葉書です。

  このレイディー・ジェイン・グレイ・スクールは、作家が自分の呼び名をジーンに変えた場所として知られていますが、少なくとも1911年の学園小説 Just Patty の背景を提供していることが指摘されています(Sky ParlourとかParadise Alleyとかいう部屋の名前や、制服、日課など)。

  同様に不確かなのですが、この学校のあったビンガムトン市には、St Mary's home for orphans やthe Susquehanna Valley orphan asylam 、またニューヨーク州立の精神病院など、さまざまな施設があって〔"Binghamton"〕、それがフレドニアの村から出てきたウェブスターの社会的な関心に影響を及ぼしたことは想像に難くないように思われます。同じ資料によれば、人口については、1880年に17317人、1890年に35005人、1900年に39647人、1910年に48443人。1900年の人口の一割強の4272人は外国生まれだったようです。

  ふつうに考えれば、この良家の娘の集うフィニッシング・スクールでの教育に飽き足らず、女子大に進学したということになるのでしょうが、レイディー・ジェイン・グレイ・スクールは、文学サークルなどもあって、なかなか高度の教養教育をしていたようです。

//////////////////////////////////////////////////////////////////////

"Jean Webster - Vassar College Encyclopedia" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/alumni/jean-webster.html>

Patterson's College and School Directory of the United States and Canada (Chicago: American Educational Co., 1904) <http://www.archive.org/details/pattersonscolle09pattgoog> 〔Internet Archive〕 

"Binghamton - LoveToKnow 1911" <http://www.1911encyclopedia.org/Binghamton> 〔lovetoknow: Classic Encyclopedia, Based on the 11th Edition of the Encylopaedia Britannica (pub. 1911)〕

「アメリカ大学留学・語学留学ガイド アメリカの高校について」 <http://www.america-guide.net/highschool/abouthighschool.html> 〔アメリカの学年について〕

「フィニッシングスクール」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB>

"Finishing School"  Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Finishing_school>

 

 


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ジュディーの年齢 (3) Judy's Age [Marginalia 余白に]

ジュディー・アボットの年齢については、「ジュディーの年齢 (2) Judy's Age」でいちおう暫定的な解決を見た気になって、頭はすっかり別の話題に移りかけていたのですけれど、たまたま「スティーヴンソンからテニソンへ From Stevenson to Tennyson」に続く「スティーヴンソンの最初の言及 The First Mention of R. L. S.」で引用した中に、1年生の12月の時点で(ということは11月の誕生日を迎えた後です)「18年というブランクを埋めるために〔空白の18年間を背負っているので 〕because there are eighteen blank years behind me」、フツウの女の子たちに追いつくべく必死に本を読んでいる、という記述があって、あらためて気になりました。

  自分の推測だと、1年生の11月初めの誕生日で19歳になったはずなので。「ジェルーシャは、17年間の人生で、一度もふつうの家に足を踏み入れたことがなかった in all her seventeen years, had never stepped inside an ordinary house (p. 6)」という冒頭の枠物語「ブルーな水曜日 "Blue Wednesday"」の記述と同じくヘンな感じ。当初17歳の終わりに大学入学というプランを作家は思い描いていたのでしょうか? ジュディーのモデルとなったアデレイド・クレプシーは記事「レイディー・ジェイン・グレイ・スクール Lady Jane Grey School」で書いたように、1878年9月9日生まれ。小学校に一年早く入学させることも満6歳になってから入学することもありうる日付ではないでしょうか。・・・・・・

  それで、今回、ちゃんと作品テキストに検索をかけてすべて確認しました。

Daddy-Long-Legs by Jean Webster - Project Gutenberg

seventeen から twenty, twenty-one まで。そしてジュディーの年齢については、17歳というのは冒頭の一箇所だけ、21歳というのは3年生11月9日の手紙の一回だけ。そして前に引用したリペット院長が、14歳で学校をおえて村の高校に入ってふつうは16歳までのところを2年間余分にいるとジュディーに語る箇所。前は「とりあえず、現時点では以上3箇所の情報があります」と書きましたが、検索で確認すると、それら以外はすべて18年という年についてであり、それは生まれてから孤児院で育てられた18年間をもっぱら言うのでした。だから、あくまで入学前の、夏までの歳月なのでした。

(1)  My room is on the north-west corner with two windows and a view.  After you've lived in a ward for eighteen years with twenty room-mates, it is restful to be alone.  This is the first chance I've ever had to get acquainted with Jerusha Abbott.  I think I'm going to like her.
(1年生10月1日の手紙)

(2)  What do you think, Daddy?  The English instructor said that my last paper shows an unusual amount of originality.  She did, truly.  Those were her words.  It doesn't seem possible, does it, considering the eighteen years of training that I've had?  The aim of the John Grier Home (as you doubtless know and heartily approve of) is to turn the ninety-seven orphans into ninety-seven twins.
(1年生10月中旬の手紙) 

(3)  I have a new unbreakable rule:  never, never to study at night no matter how many written reviews are coming in the morning.  Instead, I read just plain books--I have to, you know, because there are eighteen blank years behind me.  You wouldn't believe, Daddy, what an abyss of ignorance my mind is; I am just realizing the depths myself.  The things that most girls with a properly assorted family and a home and friends and a library know by absorption, I have never heard of.
(1年生12月19日の手紙)

(4)  She's [Julia Pendleton is] getting quite interested in me, because I say such funny things.  I try hard not to, but they do pop out when I'm surprised--and I'm surprised most of the time.  It's a dizzying experience, Daddy, to pass eighteen years in the John Grier Home, and then suddenly to be plunged into the WORLD.
(1年生4月7日、ニューヨークからの帰りの汽車の様子を書く手紙)

(5)  Don't be outraged, Daddy.  I am not intimating that the John Grier Home was like the Lowood Institute.  We had plenty to eat and plenty to wear, sufficient water to wash in, and a furnace in the cellar.  But there was one deadly likeness.  Our lives were absolutely monotonous and uneventful.  Nothing nice ever happened, except ice-cream on Sundays, and even that was regular.  In all the eighteen years I was there I only had one adventure--when the woodshed burned.  We had to get up in the night and dress so as to be ready in case the house should catch.  But it didn't catch and we went back to bed.
(1年生5月4日の手紙)

    ということで、むしろ18歳まで孤児院にいたことを傍証する記述なのでした。(1) と (2) は翌月に19歳になるところ、(3) は前の月に19歳になったところ、(4) と (5) は19歳です。(3) の空白の18年というのも、あくまでも大学入学前の孤児院での歳月です。


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ジュディーと冒険 The Adventurous Judy [Marginalia 余白に]

『あしながおじさん』のジュディーは、はじめから冒険心のある、冒険好きな人間として提示されている("adventurous little Jerusha" [p. 6]) のですけれど、冒険と文学というものを考えてみると・・・・・・とりあえずジュディーは小説家志望なので、冒険と小説の関係を考えてみると・・・・・・写実的なノヴェルに対して非写実的なロマンスがあって、文学史的に言うと、イギリスはとりわけnovel of manners 、すなわちひとつの社会や共同体における社会規範や風俗とのかかわりや相克、そしてその中での人間的成長を描くようなノヴェルの伝統が強く進展したのに対して、アメリカのほうは、社会自体が何もないところから作られ、ヨーロッパのような歴史や文化の蓄積もなく、人々は広大な土地にあって移動型だから共同体がなかなか安定しない、とかあれこれな要因があり(そもそもアメリカにやってくる人たちの指向が脱伝統的社会にあったし、今日もある、というのも要因かもしれないけれど)、イギリス的、ヨーロッパ的な小説(novel)を発展しえずに、有名なアメリカ文学研究者リチャード・チェースのフレーズを借りれば "romance-novel" として、つまりノヴェルに対して非写実的/ときに超自然的/夢物語的/ありそうもないお話的なロマンスの要素をハイブリッド的に入れた小説として育ったのだ、ということが言われ、もちろん作家はいろいろ人生いろいろだし、現実重視と非現実願望とどっちが表に強く現われ認められるかという二大政党的相対的なところもあるのかもしらんけれど、英米の小説の、少なくとも政治的表裏マニフェスト対立みたいなところになっておりました。

  それで、イギリス文学史的に言うと、スティーヴンソンというのは主流の小説家ではない(のだと思う)。そして、ジュディーの文才を認めて大学に行かせる、それも作家となるべく行かせることにした、あしながおじさんは、どれだけ文学的なおじさんなのか、読んでもよくわからないところがあるのですが、ジュディーは、自分が読んでいるものを全部読んでいる("He's read all the books I've ever read" [p. 84]) と言いますし(なんか必死こいてジュディーの手紙に挙げられた本を読んでいるおじさんの像が目に浮かぶのですが)、雑誌社に送る原稿について、アレコレ批評的なことを言うのです。

  そして、そういうおじさん――ちなみに、この人(ジャーちゃん)は、(偏見で書くのではないが)、socialist です、ジュディーもsocialist になるのですが――が、ジュディーに教えることで、いちばん大きいのは、日常から出発せよ、知っていることを書け、ということではないかと思われ。

   しかし、スティーヴンソンはズレているように思われ。画家のマリ・バシュキルツェフが最晩年にエミール・ゾラを読みふけるのとは対照的と思われ。

   ということを考えながらスティーヴンソンについてあれこれ書いてみようかなあ、と考えているところです。

    4年生4月4日、ロック・ウィローからの手紙――

What do you think is my latest activity, Daddy?  You will begin to
believe that I am incorrigible--I am writing a book.  I started it
three weeks ago and am eating it up in chunks.  I've caught the secret.
Master Jervie and that editor man were right; you are most convincing
when you write about the things you know. [. . .]  I am a realist now.  I've abandoned romanticism[. . .].  (p. 110)
(私の最近の活動はなんだと思いますか、ダディー。性懲りもない、と思われそうですけれど――本を書いているんです。三週間前に始めて、むさぼるように進めています。秘密をつかんだのです。ジャーヴィー坊ちゃまとあの編集者は正しかった。自分のよく知っていることを書くときにいちばん人をうなずかせることができるのです。・・・・・・私はいまリアリストです。ロマン主義はやめました。)


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ヴァッサー女子大 Vassar Female College [Marginalia 余白に]

現在の地図

 


大きな地図で見る

A の正門の正面にコの字型に広がっているのが Main Building で、いちばん古い建物。昔の画像――

Vassar_College_ca_1862.jpg
クリックで拡大 image via "Vassar College - Wikipedia" <http://en.wikipedia.org/wiki/Vassar_College>

   "ca [circa=about] 1862" とウィキペディアにはあるけれど、画像の中央に1864とあるように、それ以降のものです。つーか、このメインビルディングの建設が1861年(大学創設の年)から1865年までかかっているわけで(参照 "Main Building - Vassar College Encylopedia" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/buildings-grounds/buildings/main-building/index.html>)。

    この古い画像は、上の地図でいうとBの図書館の方向からメインビルディングを見ている感じです。Bの上の、メインビルディングを小さくしたような建物がRockfeller Hall すが、その上にテニスコートみたいになって四つの建物が左右に並んでいます。この四つが学生寮です。右上から時計回りに、Lathrop House (1901)、Strong House (1893)、Raymond House (1897)、Davison House (1902)。

    地図のC の現在 Powerhouse Theater と呼ばれている建物は、1864年にもとは建設された、heating plant で、アメリカ初のセントラル・ヒーティングだったのだそうです("Heating Plant - Vassar College Encyclopedia" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/buildings-grounds/buildings/heating-plant.html>)。このgas plant をジュディーはジャーちゃんに案内しますし、ダメになった原稿を燃やしにやってくるのもここだったのだと思います(現実と虚構が混じりあっておるがな)。

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"Campus Map - Vassar College" <http://www.vassar.edu/visitors/map.html>


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デビルダウンヘッド (3)  Devil Down-Head [Marginalia 余白に]

デビルダウンヘッド (1)  Devil Down-Head [Daddy-Long-Legs]」と「デビルダウンヘッド (2) Devil Down-Head」と「天使と悪魔、天(国)と地(獄) Angels and Devils, Heaven (, Earth,) and Hell」、あと、「オフィーリアと柳 Ophelia and the Willow Tree」のからみです。

  今日ひさしぶりに都心の仕事場に行きました。外濠の桜並木は落ち葉を掃除する人が出ていて、でもきれいになった道に一匹太ったアメリカシロヒトリが横たわっていたりして、季節を感じました。

  で、書き留めたはずがどこかへ消えてしまった、Dictionary of American Regional English, vol.2 の "devil-downhead" の記述を書き留めておきます――

[From their habit of going headfirst down a tree trunk]〔「頭を下にして木の幹を降りる習性から」――ブラケッツ[ ] に語源的説明がくるのはOED 以来の伝統〕   Cf devil-downhill 〔これは次の見出し語ですが、devil downhead と同様に = a nuthatch〕
1 =white-breasted nuthatch.
  1917 (1923) Birds Amer. 3.200, White-Breasted Nuthatch―Sitta carolinensis carolinensis . . Other Names. . .  Devil Downhead.  1917 Wilson Bulletin 29.2.84, Sitta carolinensis.―Devil downhead. 1946 Hausman Eastern Birds 433, Sitta carolinensis . . Devil Downhead.  1956  MA Audubon Soc.  Bulletin 40.127, White-Breasted Nuthatch.  Devil-down-head (Mass.  In clambering about trees, it seems as much at home head-downward as in any other position.)
2 =red-breasted nuthatch.
  1955 Forbush - May Birds 354, Red-Breasted Nuthatch―Sitta canadensis . . Devil-down-head.

  ということで、1912年の『あしながおじさん』の2年生8月10日に出てくる "two little 'devil down-heads' darting up and down the trunk" は、この新しいアメリカ方言辞典の初出に先んじています。問題は1と2に分けてあって、1の胸白か、2の胸赤かわからんということかもしれませんが。だからといって(それを理由として)、辞書に記載されないというのもわけわかめ。コトバとモノとの対応という問題ですけれど。

WS000044.JPG

WS000186.JPG
Chester A. Reed, The Bird Book: Illustrating in Natural Colors More Than Seven Hundred North American Birds, Also Several Hundred Photographs of Their Nests and Eggs (New York and Garden City: Doubleday, 1915) <http://www.archive.org/details/birdbookillustra00reedrich>


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放浪への渇え、放浪欲 Wander-Thirst, Wanderlust [Marginalia 余白に]

マイナーな記事「彷徨の渇望 Wanderthirst」のつづきです。 

The Lied and Art Song Text Page の"Wander-thirst (Gould, set by A. Baynon, H. Davies, G. Peel, L. Ronald)" によれば、Gerald Gould が1906年の詩集 Lyrics で発表した "Wander-thirst" を詞として、いくつも歌が作られたようです。

  1910年のGraham Peel (1879-1937) の曲、1915年のHenry Walford Davies (1859-1941)、1923年のLandon Ronald (1873-1938)、1935年のArthur Baynon (1889?-1954) など。

  YouTube で wander-thirst で検索をかけると、The Hall Brothers というフォーク・デュオの2001年のアルバム Time and Tragedy 所収の "The Wander Thirst" がヒットします。――


"The Wander Thirst - The Hall Brothers" (2:47) posted by "doctordunc" on September 25, 2006: "

Photo montage video for the song The Wander Thirst by popular acoustic duo The Hall Brothers (taken from their 2001 album Time and Tragedy) The music was written by Duncan Hall, the words are an old socialist poem. Most of the photos are from West Cork, Ireland. The moving image is the grave of Arthur Ransome and his wife Evgenia, in Rusland in the Lake District."
   投稿者による説明に、「歌詞は昔の社会主義の詩」("the words are an old socialist poem")と書かれていてちょっと驚いたのですが、この詩の内容自体はともかく、Gerald Gould は政治的なスタンスをとった人のようで、奥さんは婦人参政論者 (suffragette) のBarbara Bodichon Ayrton (1888-1950) だったりします("Gerald Gould," Wikipedia)。そういうところジーン・ウェブスターにとっては関係あるんでしょうか。不明です。
 
  つぎの、子供たちのパフォーマンスは、歌詞の内容を超えて政治的だとは思われませんけれど。
  
  


"03 Wander thrist [sic]" (1:23) posted by "fshadikhan" on March 21, 2009: "Wander-thirst poem by P.C.A.I. students."

    タイトルがつづり間違っていますけれど、上のThe Hall Brothers と同様に、本文中の原詩で wanderlust のところを wanderthirst にして歌って(吟じて)いますね。

Wander‑thirst
                                                                                Gerald Gould

Beyond the East the sunrise, beyond the West the sea,
And East and West the wanderlust that will not let me be;
It works in me like madness, dear, to bid me say good-by!
For the seas call and the stars call, and oh, the call of the sky!

I know not where the white road runs, nor what the blue hills are,
But man can have the sun for friend, and for his guide a star;
And there's no end of voyaging when once the voice is heard,
For the river calls and the road calls, and oh, the call of a bird!

Yonder the long horizon lies, and there by night and day
The old ships draw to home again, the young ships sail away;
And come I may, but go I must, and if men ask you why,
You may put the blame on the stars and the sun and the white road and the sky!


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おちゃめセット The Patty Series [Marginalia 余白に]

以前から気になっていた復刊ドットコムのページにおちゃめセット(おちゃめなパッティ、おちゃめなパッティ大学へ行く)  【注目の新刊】」 <http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68308507> という案内を見つけて、買いたいな、と思い、会員(?) になったのだけれど、おちゃめセットのナカミの2冊――遠藤寿子訳『おちゃめなパッティ』と内田庶訳『おちゃめなパッティ 大学へ行く』は、アマゾンでも買えて、たまたまモーリちゃんの父はプライムなんたら会員で送料がただなので、結局アマゾンで、とりあえず前者だけ、買ってしまいました。(お茶の間セットみたいに、お茶と扇子がついているみたいなのだったらとびついたのですが。)すいません。

  あしながおじさんの話題は尽きないw ので、そのうち並行してアレコレ書こうと思いながら読んでいるところです。日本人の執事 Osaki が出てきたり、秘密結社のパロディーが(くりかえし)あったり、スピリチュアリズム(霊交思想)への言及があったり、おもろいです。

  ところで遠藤寿子による邦訳のタイトルはおちゃめではなくて『女学生パッティ』でした。

  今日、たまたままた、このあいだよりもはるかに多いアメリカシロヒトリたちのいる外堀沿いの桜並木を歩いて仕事場に行って、地震で崩れた本を見ていたらば、白木茂(個人的にはシートン動物記の訳者としてなじみぶかい人)訳の『あしながおじさん』が見つかったのですけれど、白木茂は『おちゃめなパッティ』という題で(たぶん) Just Patty の邦訳を出しています。

  ま、おちゃめでまとめることに文句はないですけれど。(おそらく、女子男子とも、「お茶目」という言葉に激しくノスタルジアを感じる戦後世代はいるように思われもし。)

  白木茂訳の『足ながおじさん』(正進社名作文庫10―1970年7月1日初版、100円、208pp.)を帰りの電車で数分読んでいたのですが、解説に書かれていないけれども、抄訳でした。一段落、二段落、と落ちているところがあります〔これは一緒に東健而と厨川圭子(角川文庫の古い昭和30年代の本も同時に見つかり)と遠藤寿子の岩波文庫版(このあいだ古本市で買って、自宅から東健而と比較すべく持って出た)と4冊並べて見ていたからはっきりわかるのです〕。

  実は白木茂訳の『おちゃめなパッティ』は昨晩、古本サイトの源氏なんたらで300円で出ていたので注文しました。これも抄訳なのかしら。

  で、遠藤寿子訳(の復刊リプリント)ですが、昔買った英語の原文とときどき見比べながら読んでいるのですけれど、最初のほうで、少なくとも一箇所、メー・マーテルの架空の恋人カスバート・セント=ジョンが送ってきたマリー・コレリという英国女性作家の作品集のところの二段落がすっぽり抜け落ちていました。これが、もともとの翻訳がそうだったのか、復刻本のエラーなのかわからないところが、完全リプリントではないところの復刻本の問題なのだとあらためて思われます(遠い目→)。それから、一方で、日本語がおかしいところ(言葉がダブって繰り返されたりしているところ)は残っています。

  一方で、さまざまな、とりわけ今日的にはPC的な、ありていにいえば差別用語問題などを原因として、テクストに改変が加えられ、あたかもそれが原書と同様であるとして通るのはいささか問題があるでしょうし、ポピュラーな本に、厳密性を求めるのも無粋ということになるのかもしれませんけれど、ちょっと(翻訳であるがゆえになおさら)複雑な思いをしたのでした。いったい遠藤寿子の翻訳テクストに「おちゃめ」はあったのでしょうか(あるかもしらんが)。


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ウィキペディアの外部リンク External Links of Wikipedia [Marginalia 余白に]

英語のWikipedia の "Daddy-Long-Legs" をひさしぶりに見たら、最後の "External links" の冒頭に、見たことのないリンクがあった――

External links
  クリックすると、今年の10月に出る予定("Release: October 2009 (Anticipated)")のオーディオブックなのでした <http://www.kalliope-audiobooks.com/daddy_long_legs>。
Book%20artwork%20Daddy-Long-Legs%20279x279.jpg
image via "Kalliope Audiobooks | Daddy-Long-Legs by Jean Webster (audiobook recording)" <http://www.kalliope-audiobooks.com/daddy_long_legs>
  
  こういうのって、誰がどういう権限で先頭にリンクを書き込むのでしょう。前に記事「ジーン・ウェブスターの著作 Jean Webster's Works [作家の肖像] 」でリンクを並べたように、無料のオーディオブックが少なくとも二つはあるのに――
    ・Project Gutenberg Audio Book of Daddy-Long-Legs <http://www.archive.org/details/daddylonglegs19782gut>

     ・LibriVox recording of Daddy-Long-Legs <http://www.archive.org/details/daddy-long-legs_librivox>

  タダがいいとは限りませんし、特に朗読は半分演劇的だし類比的には音楽的なパフォーマンスですから、文字テクストとは違うヨシアシが当然あるのはわかりますけれど。あー、さらによく見たら、そのふたつ上の項目にもこうあります――

Audiobook adaptations

  • "Daddy-Long-Legs" (2009 Audio Book) Published by Kalliope Audiobooks, narrated by Kelleigh Miller, directed by Roy Yokelson of Antland Productions

  宣伝やん。

  それはともかく、このLaura Diehl によるカヴァー・イラスト、前に見たことがありました。
   
    このイラストレーター自身の2009年3月9日付のブログに下絵とともに横長の全体の絵が載っています。<http://ldiehl.blogspot.com/2009/03/daddy-long-legs-and-moving.html>  くだんのオーディオブックの表紙だということが書かれています。特に構図について作者の説明があるわけではないのですが、記事「ヴァッサー女子大 Vassar Female College」を書いた今はわかります。これはヴァッサー女子大の寮の窓からメインビルディングを望んでいるのですね。それも、どうやら Raymond House を想定しているに思われ(記事「女子寮の話から火馬、火の車馬、火事馬、消防馬、消防馬車馬へ Fire Horses」も参照)。あ、3月19日付の "Daddy Long Legs (just about done)"  <http://ldiehl.blogspot.com/2009/03/daddy-long-legs-just-about-done.html> のほうが「ほぼ」完成作品みたいです。前日のブログにももう1枚載っています。完成作品はコピーライトで載せられないけれど、作成過程のものは載せられるということなのかしら。
  上の絵で切れている左半分には、手紙の便箋の上にアシナガグモらしきムシが乗っていたり、窓際のソファみたいなもののつくり(孤児院で window chair から外を眺めることを習慣にしていたジュディーは、寮の部屋に入ったとき、わざわざチェストを窓際に置いて、そこに乗って景色が眺められるようにしたのでした)とか、ああ、作品を読んで描いているのだなあ、そしてヴァッサーのことも調べて描いているのだなあと思ったしだいです。でも Daddy Long Legs とハイフンがないのは(ブログの記述も同様)マズイと思いますけど。

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ジュディーと冒険 (2) The Adventurous Judy [Marginalia 余白に]

(1)  Jerusha had an imagination--an imagination, Mrs. Lippett told her, that would get her into trouble if she didn't take care--but keen as it was, it could not carry her beyond the front porch of the houses she would enter.  Poor, eager, adventurous little Jerusha, in all her seventeen years, had never stepped inside an ordinary house; she could not picture the daily routine of those other human beings who carried on their lives undiscommoded by orphans.
("Blue Wednesday")

(2)  You only wanted to hear from me once a month, didn't you?  And I've been peppering you with letters every few days!  But I've been so excited about all these new adventures that I MUST talk to somebody; and you're the only one I know.  Please excuse my exuberance; I'll settle pretty soon.  If my letters bore you, you can always toss them into the wastebasket.  I promise not to write another till the middle of November.
(October 25)

(3)                                         After chapel, Thursday

     What do you think is my favourite book?  Just now, I mean; I change every three days.  Wuthering Heights.  Emily Bronte was quite young when she wrote it, and had never been outside of Haworth churchyard.  She had never known any men in her life; how COULD she imagine a man like Heathcliffe?
     I couldn't do it, and I'm quite young and never outside the John Grier Asylum--I've had every chance in the world.  Sometimes a dreadful fear comes over me that I'm not a genius.  Will you be awfully disappointed, Daddy, if I don't turn out to be a great author?  In the spring when everything is so beautiful and green and budding, I feel like turning my back on lessons, and running away to play with the weather.  There are such lots of adventures out in the fields!  It's much more entertaining to live books than to write them.


(4)  He [Jervis Pendleton] spent the summer here once after he had been ill, when he was about eleven years old; and he left On the Trail behind.  It looks well read--the marks of his grimy little hands are frequent!  Also in a corner of the attic there is a water wheel and a windmill and some bows and arrows.  Mrs. Semple talks so constantly about him that I begin to believe he really lives--not a grown man with a silk hat and walking stick, but a nice, dirty, tousle-headed boy who clatters up the stairs with an awful racket, and leaves the screen doors open, and is always asking for cookies.  (And getting them, too, if I know Mrs. Semple!) He seems to have been an adventurous little soul--and brave and truthful.  I'm sorry to think he is a Pendleton; he was meant for something better.

(5)  Don't be outraged, Daddy.  I am not intimating that the John Grier Home
was like the Lowood Institute.  We had plenty to eat and plenty to wear, sufficient water to wash in, and a furnace in the cellar.  But there was one deadly likeness.  Our lives were absolutely monotonous and uneventful.  Nothing nice ever happened, except ice-cream on Sundays, and even that was regular.  In all the eighteen years I was there I only had one adventure--when the woodshed burned.  We had to get up in the night and dress so as to be ready in case the house should catch.  But it didn't catch and we went back to bed.
(May 4)

(6)  During our week of rain I sat up in the attic and had an orgy of reading--Stevenson, mostly.  He himself is more entertaining than any of the characters in his books; I dare say he made himself into the kind of hero that would look well in print.  Don't you think it was perfect of him to spend all the ten thousand dollars his father left, for a yacht, and go sailing off to the South Seas?  He lived up to his adventurous creed.  If my father had left me ten thousand dollars, I'd do it, too.  The thought of Vailima makes me wild.  I want to see the tropics.  I want to see the whole world.  I am going to be a great author, or artist, or actress, or playwright--or whatever sort of a great person I turn out to be.  I have a terrible wanderthirst; the very sight of a map makes me want to put on my hat and take an umbrella and start.  "I shall see before I die the palms and temples of the South."
(August 10)

(7)  It's awfully funny to think of that great big, long-legged man (he's nearly as long-legged as you, Daddy) ever sitting in Mrs. Semple's lap and having his face washed.  Particularly funny when you see her lap!  She has two laps now, and three chins.  But he says that once she was thin and wiry and spry and could run faster than he.
     Such a lot of adventures we're having!  We've explored the country for miles, and I've learned to fish with funny little flies made of feathers.  Also to shoot with a rifle and a revolver.  Also to ride horseback--there's an astonishing amount of life in old Grove.  We fed him on oats for three days, and he shied at a calf and almost ran away with me.
(August 25)

(8)  Give the Home my love, please--my TRULY love.  I have quite a feeling of tenderness for it as I look back through a haze of four years.  When I first came to college I felt quite resentful because I'd been robbed of the normal kind of childhood that the other girls had had; but now, I don't feel that way in the least.  I regard it as a very unusual adventure.  It gives me a sort of vantage point from which to stand aside and look at life.  Emerging full grown, I get a perspective on the world, that other people who have been brought up in the thick of things entirely lack.
(March 5)

(9)  What do you think is my latest activity, Daddy?  You will begin to believe that I am incorrigible--I am writing a book.  I started it three weeks ago and am eating it up in chunks.  I've caught the secret.  Master Jervie and that editor man were right; you are most convincing when you write about the things you know.  And this time it is about something that I do know--exhaustively.  Guess where it's laid?  In the John Grier Home!  And it's good, Daddy, I actually believe it is--just about the tiny little things that happened every day.  I'm a realist now.  I've abandoned romanticism; I shall go back to it later though, when my own adventurous future begins.
     This new book is going to get itself finished--and published!  You see if it doesn't. If you just want a thing hard enough and keep on trying, you do get it in the end.  I've been trying for four years to get a letter from you--and I haven't given up hope yet.
(April 4)


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This Is a Very Entertaning World [Marginalia 余白に]

ペンギン版の『あしなあおじさん』で、p. 64, l. 6に出てくる  "This is a very entertaining world." という一文。

  少し前の時代のSallie Holley A Life for Liberty: Anti-Slavery and Other Letters of Sallie Holley (New York: , 189  ) 190ページに次の一節があります <http://books.google.co.jp/books?id=ZvVJ7mG6iQQC&pg=PA190&lpg=PA190&dq=%22this+is+a+very+entertaining+world%22&source=bl&ots=hbZVDO7OVH&sig=8iyayPxWoweg-y-DiNhYD6jdZK8&hl=ja&ei=ue9GSseXJtOJkQX5laHvCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1 > ――

      “On the principle ‘Do the duty nearest you,” Miss Putnam thought she ought to remain here and wishes me to aid and labour with her, feeling that no work we could do elsewhere would be more important.  Anti-slavery- wise I have not been entirely idle.  I have sent $100.00 to the dear old Anti-Slavery Society from friends who know I am always agent for the cause.  In the subscription list are more than one hundred names of individual abolitionists, scattered from Maine to Michigan, upon whose kindness and hospitality we have been from time to time ‘quartered.’
    
“You will be pleased to know that my ‘contraband’ box arrived in Washington and gave great satisfaction.  I have another nearly ready to send. “What a great variety of scenes has human life !  As Edmund Quincy said,  This is a very entertaining world.’  The only party I have attended this winter was a ‘donation party’ at the Baptist minister's, where the chief amusement was the game of  ‘snap and catch.’  I tended a woman's baby while she played.”

** FARMERSVILLE, Sept. 12, 1863.

  こういうのって引用なんだかなんなんだかわかりません。それでも、どうやらジーン・ウェブスターという人は、引用符なしの引用とか、あんがいやっているみたいですし、大叔父さんのマーク・トウェインへの意識は別としても、第一に、イギリス的ノヴェル成立以来の「書簡体」小説の伝統と、第二に、社会の除け者的な存在(別に悪い人でなくても「ピカロ(悪党)」的な位置づけを、社旗規範を守る人たちからは烙印される)が社会でそれなりの智慧を得て成長していく「ピカレスク・ロマン」的な伝統と、第三にドイツ語でビルドゥングス・ロマン(教養小説・発展小説)と呼ばれた、人間の成長を描く小説(でもコレ自体、マナーよりもキャラクター描写に力点を置いた場合の英国小説の特質なわけでしょうが)、第四に、若者が作家として成長してゆく「芸術家小説」的な伝統(これは第二・第三に連結するところありなのでしょうけれど)、それから19世紀から児童文学や宗教文学と切り結びながら発達してきたらしい女性小説など、いろいろな「小説」のフォーミュラやら形式やら構成やらを学んだうえでつくられたものだと思われ、いきおい、引用は複雑な様相を呈するのかもしれない、なあ、とも想像したりします。それにしてもよくわからず、タダのメモです。


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ミディ―ブラウス――100年前のセーラー服 (3)  Middy Blouse: Sailor Suits of a Hundred Years Ago (3) [Marginalia 余白に]

いろいろとWEBをブラウズしておったのですけれど、ミディ―ブラウス(ズ)の歴史について、とてもわかりやすく20世紀後半まで追っているページとして、Lizzie Bramlett さんの Fuzzylizzie Vintage Clothing Fashion History というサイト内の "History of the Middy" <http://fuzzylizzie.com/middy.html> が見つかります。

  かいつまんで祖述すると、1880年ごろに女性の運動服がセーラー襟になってきて、水着と体操着として "middy" が用いられる――けれども、Lizzie さんの定義では、これは真のmiddy ではない――なぜなら、スカートあるいはブルマーにたくしこまれたり、ボタン留めされたり、付着されたりするものだったから(このへん、微妙だなあと思います。あとイラストが世紀が変わった1907年のシアーズのカタログだったりするところもなかなか微妙)。

    そして1910年ごろに、肩から腰下までストンとしたタイプの真のミディ―が登場します。で、その後、1970年代のリヴァイヴァルとか、1980年代にローラ・アシュレイ(アシュリー)が採用したこととか書かれています。これは日本的制服的なセーラー服の歴史と重なりながら、日本では見失われた大人のセーラーの歴史を語っていて、興味深いと思います。それから、同時に、(やっぱり日本では主流にはならなかった)運動着というかスポーツウェア(→カジュアルウェア)としてのミディ―ブラウスの歴史を語っているのだと思われ。

    いっぽう、ヴァッサー大学の Vassar Encyclopedia のなかの "Athletics, 1865-1945" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/athletics/athletics-1865-1945.html> というページには、1876年の野球チーム、1894年のゴルフ、1898年のスケート、1899年のバスケットボールなど、女子大学での体育・運動について、写真を添えて歴史的な記述があります。断定はできませんけれど、1899年のバスケの写真は、一部の学生がセーラー襟の服を着ているようです。それから同じヴァッサー百科のなかの "Field Day" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/athletics/field-day.html> を見ると、1904年には完全にセーラーというかミディ―ブラウスの上着で運動会に臨んでいることがうかがえます。それも、スカートの外にブラウスを出しています。

Fieldday1904016.jpg
image via "Field Day," Vassar Encyclopedia <http://vcencyclopedia.vassar.edu/athletics/field-day.html>

 

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"History of the Middy" <http://fuzzylizzie.com/middy.html>

"Athletics, 1865-1945" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/athletics/athletics-1865-1945.html>

"Field Day" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/athletics/field-day.html>

 

 

   

  

 


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スティーヴンソン全集(アメリカのアザミ版) The Thistle Edition of Robert Louis Stevenson's Works [Marginalia 余白に]

9月11日の記事「スティーヴンソン全集 Works of Robert Louis Stevenson」で書いたように、ロバート・ルイス・スティーヴンソン (1850-94) の死後、『あしながおじさん』の出る1912年までのあいだに、英米で数種類の全集が刊行されていますが、ジーン=ジュディーが購入したと空想されるものとしてアメリカの the Thistle Edition があります。 "Robert Louis Stevenson - Bibliography: Collected Editions" <http://dinamico2.unibg.it/rls/colledits.htm> というページは、"[first] Thistle Edition" として、24+3巻 (New York: Charles Scribner's Sons, 1995-99, 1911-12) と記載し、以下のような細かい記述と各巻の構成へのリンクを記しています。――

Size: 8 3/8 in. / 21.3 cm. (also reported as 20.4 cm and (by Spehner) as 20 cm.).
Bdg: Red buckram with lettering and ornaments in gold.
Sold by subscription. frontispieces; 2 vols of Balfour’s biog. added as vols 25-6 in 1911; ‘New Letters’ added as vol. 27 in 1912; headings vary on title pages: "The Novels and Tales of…", "The Travels and Essays of… etc.
Issued to subscribers only. Individual vols. were also sold separately (in bindings without the thistle motif). List of vol. titles.

  予約購読だけれど、個別に販売もしたと書かれています(ただしその場合は "thistle" (アザミ)の図柄がない製本だった)。タイトルページの記述は「R. L. S. の長篇・短篇小説集」とか「R. L. S. の紀行文と随筆集」とか、もとからまちまちで、全巻に統一された総題はなかったようです。

  Internet Archive で、Works of Stevenson みたいな検索をかけていたので、この全集がヒットしなかったことに先日ようやく気づきました。そして、 "The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson" がこの全集の呼称であることがわかりました。

    以下、せっかくですので、それぞれが各巻冒頭のポートレトを見られるようにリンクしてみます。ただし、初版ではなくて20世紀になってからのリプリント版が混ざっていますです(主として1903年版)。

The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson, 27 vols.

New York: Charles Scribners’ Sons, 1895-[99](vols. 1-24); 1911-12 (vols. 25-27)

I. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] New Arabian Nights (1895)  386pp. 

II. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] Treasure Island (1895)  266pp.  Rpt. 1911.


III. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] More New Arabian Nights & The Dynamiter & The Story of a Lie (1895)  345pp.  [1895年初版]


IV. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] Prince Otto & Island Nights' Entertainments & Father Damien (1895)  432pp.  [1895ed.]


V. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] Kidnapped (1895)  281pp.  [1895初版]


VI. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] David Balfour: A Sequel to "Kidnapped" (1895Rpt. 1911.  [1895初版]


VII. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] The Merry Men and Other Tales and Fables & Dr. Jekyll and Mr. Hyde (1895)  372pp. [Rpt. 1911]  [1895初版


VIII. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] The Black Arrow & The Misadventures of John Nicholson & The Body-Snatcher (1895)  430pp.  Rpt. 1911.


IX. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] The Master of Ballantrae: A Winter's Tale (1896)  291pp.


X. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] The Wrecker [written in collaboration with Lloyd Osbourne] (1896)  497pp.  Rpt. 1911.  [1895初版]


XI. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] The Wrong Box & The Ebb Tide (1896)  399pp.  [1895年初版Rpt. 1911.


XII. [The Travels and Essays of Robert Louis Stevenson] An Inland Voyage & Travels With a Donkey in the Cevennes & Edinburgh, Picturesque Notes (1896)  358pp. 〔残念ながらWalter Craneの挿画がない


XIII. [The Travels and Essays of Robert Louis Stevenson] Virginibus Puerisque [and Other Papers] & Memories and Portraits (1896 [1895])  358pp.


XIV. [The Travels and Essays of Robert Louis Stevenson] Familiar Studies of Men and Books & Miscellaneous Papers: Popular Authors / Gentlemen / Gentlemen in Fiction / Pentland Rising (1896 [1895])  400pp.  [1895初版]


XV. [The Travels and Essays of Robert Louis Stevenson] The Amateur Emigrant & Across the Plains & The Silverado Squatters (1896)  428pp.  Rpt. 1911.


XVI. [Ballads and Other Poems of Robert Louis Stevenson] A Child’s Garden of Verses & Underwoods & Ballads (1895)  359pp.  Rpt. 1911.  [1895初版]


XVII. [Vailima Letters] [Letters and Miscellanies of Robert Louis StevensonCorrespondence Addressed to Sidney Colvin, November 1890 to October 1894 (1896)  322pp.  Rpt. 1911.


XVIII. [Letters and Miscellanies of Robert Louis StevensonMemoir of Fleeming Jenkin & Records of a Family of Engineers (1896)  366pp.


XIX. [Letters and Miscellanies of Robert Louis StevensonIn the South Seas / A Footnote to History (1896)  508pp.


XX. Weir of Hermiston[: An Unifinished Animal] & The Plays [of W. E. Henley and Robert Louis Stevenson] & Fables (1896)  508pp.  Rpt. 1911.


XXI. [The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson] St. Ives: Being the Adventures of a French Prisoner in England (1897)  485pp.


XXII. [Letters and Miscellanies of Robert Louis StevensonSketches, Criticisms, etc. [Sketches / College Papers / Notes and Essays, Chiefly of the Road / Criticisms / An Appeal to the Clergy of the Church / Literary Papers / [Unfinished stories:] The Great North Road / The Young Chevalier / Heathercat / Essays and Fragments Written at Vailima / Letters to the "Times," "Pall Mall Gazette," etc. / Letters to Young People / Lay Morals / Prayers Written for Family Use at Vailima / Addenda / Index to the Thistle Edition] (1898)  669pp.


XXIII. [Letters I] [Letters and Miscellanies of Robert Louis Stevenson]  Letters to His Family and Friends, Selected and Edited with Notes and Introduction by Sidney Colvin I  (1899)  443pp.  Rpt. 1911.


XXIV. [Letters II] [Letters and Miscellanies of Robert Louis Stevenson]  Letters to His Family and Friends, Selected and Edited with Notes and Introduction by Sidney Colvin II (1899)  465pp. incl. Index

XXV. [Life I[The Life of Robert Louis Stevenson] By Graham Balfour in Two Volumes with Portraits I (1901)

XXVI. [Life II[The Life of Robert Louis Stevenson] By Graham Balfour in Two Volumes with Portraits II (1904)  275pp. incl. Index

XXVII. [New Letters]  [Letters and Miscellanies of Robert Louis StevensonNew Letters, Selected and Edited by Sidney Colvin [including letters first published here in book form] (1912)  338pp. incl. Index  肖像入り

   第22巻にそれまでの総索引Index がついていて、そのタイトルで "Thistle Edition" と自ら名乗っていることがわかりました。それから、このアメリカ版全集でも書簡集の編者として名が挙がっている Sidney Colvin の編集したエディンバラ版とは、構成が、手紙以外の部分も、異なっていることがわかりました。

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スティーヴンソンのE-texts についていちばん詳しい情報を与えているのは、上記の"Robert Louis Stevenson - Bibliography: Collected Editions" <http://dinamico2.unibg.it/rls/colledits.htm> があるのと同じホームページ内の、"Robert Louis Stevenson - E-text Library" <http://dinamico2.unibg.it/rls/e-texts.htm> だと思われます。


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スティーヴンソンの手紙 Letters of Robert Louis Stevenson [Marginalia 余白に]

Stevenson_vailima.jpg 
中央右奥がロバート・ルイス・スティーヴンソン (1850-94)

スティーヴンソンがサモアのヴァイリマの村で急逝する1894年に刊行が始められたエディンバラ版 the Edinburgh Edition の全集 The Works of Robert Louis Stevenson  〔「スティーヴンソン全集 Works of Robert Louis Stevenson」参照〕は、友人のSidney Colvin とCharles Baster の編集により Chatto & Windus 社から5年をかけて1898年までに28巻を刊行しました(当初全20巻の予定だったようです)。この全集の完結後の1899年には、Sidney Colvin 編集の書簡集が、同じ装丁で同じ出版社から出されていることが、調べてみるとわかりました。

  アメリカのスクリブナーズ版の the Thistle Edition 〔「スティーヴンソン全集(アメリカのアザミ版) The Thistle Edition of Robert Louis Stevenson's Works」参照〕は、エディンバラ版の1年後の1895年から出始めたので、当初どういうプランがあったのかわかりませんが――あるいは、全体の統一的タイトルが欠如していたのが幸いしたのかとも思われます――この新しい書簡集を同じ1899年に、第23巻・24巻として収録した、というのが事実のようです。

  いずれにしても、予約制で刊行されたエディンバラ版の本体では、書簡集としては、第24巻の Correspondence に収録されている VAILIMA LETTERS (xx + 348pp.) と、25巻の History に収録されている LETTERS FROM SAMOA だったのに対して、同様にアメリカで予約制で出版されたアメリカのシッスル(アザミ)版では、23巻・24巻として新しいコルヴィン編の書簡集が配本されたのでした。――

XXIII. [Letters I] [Letters and Miscellanies of Robert Louis Stevenson]  Letters to His Family and Friends, Selected and Edited with Notes and Introduction by Sidney Colvin I  (1899)  443pp.  Rpt. 1911.


XXIV. [Letters II] [Letters and Miscellanies of Robert Louis Stevenson]  Letters to His Family and Friends, Selected and Edited with Notes and Introduction by Sidney Colvin II (1899)  465pp. incl. Index

 

  ということで、ジュディーが2年生の8月中旬にロック・ウィロー農園から出す手紙に引かれている、スティーヴンソンの手紙の文句の出典は、ジーン・ウェブスター/ジュディー・アボットの購入したスティーヴンソン全集との関係で考えると、イギリス版ではなくて、アメリカ版だったと仮想的に結論する次第です。

  この1899年刊行の書簡集第2巻には、ヴァイリマ村のスティーヴンソンの住居の写真やデッサンも掲載されていました。――

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『宝島』の海賊の唄 A Pirate Song from Treasure Island [Marginalia 余白に]

『宝島』で反復されるヨーホーホー Yo-ho-ho の唄は、"Fifteen men on the dead man's chest― / Yo-ho-ho, and a bottle of rum! / Drink and the devil had done for the rest― / Yo-ho-ho, and a bottle of rum!" という、作品前半部に何度も出てくる4行を除けば、終わりのほうに出てくる詩の断片が、この唄の一部なのかどうか、ようわからんところです。――

WS000226.JPG

  ともあれ、この4行の詩は、『宝島』が舞台にのぼったときに曲を付けられ、かつ歌詞を長くして今日も有名な歌となっています。

   よくわからないので阿部知二の岩波少年文庫の訳を引いておきます。――

亡者の箱まで、はってのぼった十五人――
  いっぱい飲もうぞ、ヨー・ホー・ホー!
あとのやつらは、酒と悪魔にやられたぞ――
  いっぱい飲もうぞ、ヨー・ホー・ホー!

    Erich's Songbook というサイトは、楽譜と歌詞を掲載しています――"Derelict" <http://www.biostat.wustl.edu/~erich/music/songs/derelict.html>。最初の4行はR. L. S.で、残りはアメリカのYoung Edwing Allison (1853-1932) が、はじめは1891年に、そして、さらに増補して1901年のブロードウェーのミュージカルで、Walter か Waller という名前の人の曲を付けて演じられました。そのとき "Derelict" というタイトルが与えられたようです。

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via "Yo Ho Ho And A Bottle Of Rum - Fifteen men on a dead man's chest" <http://www.sailorsongs.com/yo_ho_ho_and_a_bottle_of_rum.html>

   どうやら19世紀末からスティーヴンソンの詩の元だと称する偽の唄が提示され、その後1914年に『タイムズ』紙が古くからの海賊の唄だという記事を載せて論争が起こったりもしたようですが、スティーヴンソン父子の手紙や資料から推して、(1) もともとがスティーヴンソンが自作の詩だというのは確かで、 (2) アメリカ人のアリソンはスティーヴンソンの4行を敷衍して創作したというも確かなようです〔Vincent Starrett, Buried Caesars: Essays in Literary Appreciation (Chicago: Covici-McGee, 1923; rpt. Ayer, 1968), ch. 14, "Y. E. A. and a Bottle of Rum" (pp. 189-204) 参照〕。それでも、その後も歌詞のパロディーや曲の付加が行なわれたこともおそらく手伝って、古くからの海賊の唄というイメジを伴って歌われているようです。


"Fifteen Men (Bottle of Rum) - Original Version" (3:54) posted by "Yabier11" on June 6, 2008: "The most realistic and accurate version of this all-time pirate tune. Forget POTC.

"The song is subtitled, so you can sing it in your nights at sea!

"This is from the Roger Wagner Chorale recording of Sea Chantys. Capitol record number P3462 of 1959. Harve Presnell is the soloist. Thanks to IUFTR for the info and sorry for my big mistake.

"As you will know, the song is based on the lyrics by R.L. Stevenson's Treasure Island, one of the greatest novels ever written. I think this version captures its essence, and because of it I say it's the most realistic and accurate version (for me).

"Stevenson is one of my favourite writers. From The Master of Ballantrae and The Wrecker, his horror literature as The Body Snatcher or Markheim, to his travel books as The Silverado Squatters. I have ALL his works published in Spain! ;)
"

   何を「オリジナル」とするか、よくわからんところがあるのですけれど、つぎのものとは少し曲が違うようではあります。――


"Derelict - Yo Ho Ho And A Bottle Of Rum" (4:58) posted by "TertiusOculusOris" on April 27, 2008: "Pirates are cool. Leave a comment matey. I sing this whenever I'm good and drunk, no jokes. You landlubbers wouldn't even begin to understand. I'm a pirate at heart. Who's with me!? Down-loaders of copyrighted music, movies, books, programs or whatever, all are pirates! Sure people need money, and sure they deserve money for their hard work! On the other hand, we only need money because THEY say we need money. We'll take what we want! So, my fellow buccaneers, drink up! Have a shot for your ole' friend TertiusOculusOris, I'm drinking for you! Arrrggh you bastards better sing along! When I sober up maybe I'll post the lyrics... If you want to download this song or any other YouTube video (including in MP3 format) use aTube Catcher: http://atube-catcher.dsnetwb.com/get-video-software-windows-home/content/banco-datos-Welcome-Home-Page.html?seguro=1&credITO=forEX-tern&auto=1

Lyrics

Verse 1.
Fifteen men on a dead man's chest
Yo ho ho and a bottle of rum
Drink and the devil had done for the rest
Yo ho ho and a bottle of rum.
The mate was fixed by the bosun's pike
The bosun brained with a marlinspike
And cookey's throat was marked belike
It had been gripped by fingers ten;
And there they lay, all good dead men
Like break o'day in a boozing ken

Yo ho ho and a bottle of rum.

Verse 2.
Fifteen men of a whole ship's list
Yo ho ho and a bottle of rum!
Dead and be damned and the rest gone whist!
Yo ho ho and a bottle of rum!
The skipper lay with his nob in gore
Where the scullion's axe his cheek had shore
And the scullion he was stabbed times four
And there they lay, and the soggy skies
Dripped all day long in up-staring eyes
And murk sunset and at foul sunrise
Yo ho ho and a bottle of rum.

Verse 3.
Fifteen men of 'em stiff and stark
Yo ho ho and a bottle of rum!
Ten of the crew had the murder mark!
Yo ho ho and a bottle of rum!
Twas a cutlass swipe or an ounce of lead
Or a yawing hole in a battered head
And the scuppers' glut with a rotting red
And there they lay, aye, damn my eyes
All lookouts clapped on paradise
All souls bound just contrariwise
Yo ho ho and a bottle of rum.

Verse 4.
Fifteen men of 'em good and true
Yo ho ho and a bottle of rum!
Ev'ry man jack could ha' sailed with Old Pew,
Yo ho ho and a bottle of rum!
There was chest on chest full of Spanish gold
With a ton of plate in the middle hold
And the cabins riot of loot untold,
And they lay there that had took the plum
With sightless glare and their lips struck dumb
While we shared all by the rule of thumb,
Yo ho ho and a bottle of rum!

Verse 5.
More was seen through a sternlight screen...
Yo ho ho and a bottle of rum
Chartings no doubt where a woman had been
Yo ho ho and a bottle of rum.
A flimsy shift on a bunker cot
With a thin dirk slot through the bosom spot
And the lace stiff dry in a purplish blot
Oh was she wench or some shudderin' maid
That dared the knife and took the blade
By God! she was stuff for a plucky jade
Yo ho ho and a bottle of rum.

Verse 6.
Fifteen men on a dead man's chest
Yo ho ho and a bottle of rum
Drink and the devil had done for the rest
Yo ho ho and a bottle of rum.
We wrapped 'em all in a mains'l tight
With twice ten turns of a hawser's bight
And we heaved 'em over and out of sight,
With a Yo-Heave-Ho! and a fare-you-well
And a sudden plunge in the sullen swell
Ten fathoms deep on the road to hell,
Yo ho ho and a bottle of rum! "

    曲は1分半ぐらいから始まります。歌詞の変化やその後のディズニー映画などへの発展については、Wikipedia の "Dead Man's Chest" <http://en.wikipedia.org/wiki/Dead_Man%27s_Chest>の記事(対応する日本語の項目なし)と、そこからのWikisource などのリンクが参考になるようです。

10日朝追記 聴き直したら、基本同じでした。steampunk folk といわれるバンド Abney Park の演奏も基本同じですが、あたかも古い唄を古い衣装で歌うパフォーマンスは、ルネサンスフェアに通じる精神がおそらくあって――実際アブニー・パーク(この名前はロンドンの墓地の名に由来します)はその手の"Faire" で活動してきたようです――、ふと思ったのは、白人の歴史のなかったアメリカでこういう唄が偽造され流行るのもむべなるかな、と。ディズニーの『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』も含め。


"Abney Park - Yo Ho Ho And A Bottle Of Rum (Acoustic)" (3:34) posted by "Synsterz" on September 7, 2008.

//////////////

"Abney Park - Steampunk Band" <http://www.abneypark.com/> 〔オフィシャル・サイト〕

パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト - Wikipedia」 〔映画 Pirates of the Caribbean: Dead Man's Chest (2006) の記事。読んでも「デッドマンズ・チェスト」の意味がわかりませんが、箱ですよねー、宝の。なんでカタカナだらけなんでしょー、今日日の映画のタイトルは。かつてスティーヴンソンの dead man's chest を「死者の胸」と誤読した偽作詩もあったそうで、気になっています〕

ルネサンス・フェアについては、カリフォルニア時間の「September 24 ルネサンス・フェアをめぐって (上)  Renaissance Fair (1) [America]」など参照。てへ。


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『ニューイングランド初等教本』 The New England Primer [Marginalia 余白に]

『ニューイングランド初等教本 The New England Primer』 は、アメリカ建国の一世紀前の植民地時代1680年代につくられ、19世紀後半まで、地域によっては20世紀の1920年代まで使用された、初等教育用教科書です。

7月21日の「この本が迷子になっていたら (2) If This Book Should Chance to Roam [Daddy-Long-Legs]」で書いたように、『あしながおじさん』のなかでジャーヴィー坊ちゃんが10歳くらいのころに読んでいた本の扉に署名とともに書かれていた "If this book should ever roam,
Box its ears and
send it home." という注意書きの原型は、この古い教科書に所有者が書き込んできた韻文にあるのだと思われます。

この本の名前は学生の頃から知っていたのですけれど、なんか気になって、この夏に最近のリプリント版を買いました。サイズごと原書のままなのかどうか不明ですが、軽くて小さくて、バッグに忍ばせておいて電車の中や通りを歩きながら(金次郎かいw)読むには最適です。

New-EnglandPrimer.jpg

    ハードカバーだけど105グラムしかないです(さきほど計測)。大きさは、下の画像をクリックしてちょっと拡大されたものとほぼ等しいです。

NewEnglandPrimer,rpt.jpg

New England Primer: Improved for the More Easy Attaining the True Reading of English : To Which Is Added the Assembly of Divines, and Mr. Cotton's Catechism.  1777.  Rpt. Aledo, TX: WallBuilder Press, 1991; 11th Printing, 2009.  ISBN: 978-0-925279-17-0. 

   まあ、考えてみれば、1777年版は既に90年近く経っているわけですし、諸版あって、大きさは調べてみないとよくわかりません。

  いろいろリプリント版が出ているようなのですけれど、これが一番安かったので買いましたが、この、最近のリプリント版は、しかし、冒頭5ページだけ、David Barton というひとの短い序文的解説がついています。それで、いろいろと簡便に知恵がつきました。

  第一に、発音は「プライマー」ではなくて「プリマー」というのが正しい。第二に、1930年版というのが確認されている。それから、第三に、240年の歴史の中で、教科書の核心部分――(1) 韻を踏んだアルファベット〔これは上の画像の右側にあるような、"In Adam's Fall/ We sinned all." みたいな、絵入りのものです〕、(2) "An Alphabet of Lessons for Youth" 〔これは、アルファベットで始まる教訓的な内容の短文のリスト――"Better is a little with the fear of the Lord, than great treasure & trouble therewith." みたいな〕、(3) 聖書に関するQ&A、(4) 小教理問答 Shorter Catechism――はほぼそのまま踏襲されたということです。

  小教理問答と訳される Shorter Catechism は1647年の英国のWestminster 会議でつくられたふたつの教理問答のひとつですが(主に長老派 Presbyterianが使用したとされる)、これがそのまま教科書に入っているということの意義を、1843年版の New England Primer は次のように述べています(孫引き)。――

Our Puritan Fathers brought the Shorter Catechism with them across the ocean and laid it on the same shelf with the family Bible.  They taught it diligently to their children. [. . .]  If in this Catechism the true and the fundamental doctrines of the Gospel are expressed in fewer and better words and definitions than in any other summary, why ought we not now to train up a child in the way he should go?―why not now put him in possession of the richest treasure that ever human wisdom and industry accumulated to draw from?

  モーリちゃんの父は無知でした。20世紀の日本語の教理問答は、セクト違いでカトリックの公教要理とか図解とか何種類かもっていたのですが、初等教科書に編みこまれていたとはね。

  そうすると、たとえば魔女狩りの起こった1690年代のセイレムを舞台とするホーソーンの短篇「若いグッドマン・ブラウン Young Goodman Brown」 (1835) で、ブラウンが子供の頃に教理問答を教えてくれたなんたらいうおばさんが言及されるけれど、それは New England Primer を使用したものだったのね(それとも上の引用にあるように聖書と並んで本のかたちで印刷されていたのかしら――でも聖書を一般の家庭でもつようになったのはあとのことではないかと思われ)。あるいは、同じ年のポーの短篇「名士の群れ Lionizing」 で、鼻のでかい息子に父親が "what is the chief end of your existence" と問いを発するとき、それはShorter Catechism の第一の問い "What is the chief end of man?" のもじりであり、教理問答のほうの答え "Man's chief end is to glorify God and enjoy him forever." に対してポーの物語の語り手である息子は "it is the study of Nosology" と答えて、罰当たりなパロディーとなってることを、アメリカの読者は即座に看取したのね(かどうかはわかりませんが)。

WS000253.JPG

  ということで、初等教本で勉強中です。

 

//////////////////////////////////

おそらく次の古い本が、Primer の資料としてすぐれているのではないかと思われます(少なくともE-text になっているものでは)――Paul Leicester Ford, ed.  The New-England Primer: A History of Its Origin and Development, with a Reprint of the Unique Copy of the Earliest Known Edition and Many Fac-simile Illustrations and Reproductions.  (New York: Dodd, Mead, 1897).


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チョルガッシュ、ゴールドマン、無政府主義 Leon Czolgosz, Emma Goldman, and Anarchism in America [Marginalia 余白に]

ひとつ前の記事「合衆国と日本が戦争するとか大統領が暗殺されるとかロックフェラー氏がジョン・グリアー孤児院に100万ドル遺贈した場合 In Case War Breaks Out Between the United States and Japan, or the President Is Assassinated , or Mr. Rockefeller Leaves a Million Dollars to the John Grier Hom [Daddy-Long-Legs]」(タイトル長ッw)で言及したウィキペディアの記事「マッキンリー大統領暗殺事件」にも書かれているように、マッキンリー大統領を1901年9月に暗殺したチョルガッシュは、無政府主義者エマ・ゴールドマンに共鳴するところがあり、5月、6月にゴールドマンと会っています。ゴールドマンは暗殺関与の嫌疑をかけられて逮捕・拘留されることになります。

EmmaGoldman.jpg
Emma Goldman, 1869-1940 (c. 1911)

    エマ・ゴールドマンは、1885年に姉とともにニューヨークに出てきたロシア移民で、縫製工場で働きだすのですが、翌年5月のシカゴでのヘイマーケット暴動 Haymarket Riot (ヘイマーケット広場における労働者集会で、警官隊に何者かが爆弾を投げて多数の死傷者が出た事件で、無政府主義者7人が死刑を宣告されました。労働運動を指導していた労働騎士団 Knights of Labor がアメリカ労働総同盟 AFL=American Federation of Labor に指導権を譲るきっかけになります)ののち無政府主義運動に惹かれ、自らアナキズムの文筆家・運動家となり、1892年には "propaganda by the deed (propagande par le fait)" として Henry Clay Frick の暗殺を計画し、投獄されます。女権論運動にも関わる人で、1906年創刊の雑誌『母なる大地 Mother Earth』によって「日本のフェミニスト、とりわけ伊藤野枝に大きな影響を与えた」ことなど、日本語ウィキペディアの「エマ・ゴールドマン」を参照。


"The Story of Emma Goldman (3/7): Feminism and Leon Czolgosz" (7:20) posted by "TommyLongstocking" on November 1, 2009: "Emma Goldman (June 27, 1869 May 14, 1940) was an anarchist known for her political activism, writing and speeches. She played a pivotal role in the development of anarchist political philosophy in North America and Europe in the first half of the twentieth century." 〔この文章は英語のWikipedia の "Emma Goldman" の冒頭のパッセージですけど。〕

  Czolgosz は「チョウガーズ」みたいに発音されてるみたい(英語発音としてですけど)。



"The Assassination of William McKinley" (2:26) posted by "WorldsAssassinations" on November 19, 2008: "The William McKinley assassination occurred on September 6, 1901, at the Temple of Music in Buffalo, New York. United States President William McKinley, attending the Pan-American Exposition, was shot twice by Leon Czolgosz, an anarchist. McKinley initially appeared to be recovering from his wounds, but took a turn for the worse six days after the shooting and died on September 14, 1901."〔この文章は英語のWikipedia の "William McKinley assassination" の冒頭のパッセージです〕

    ジーン・ウェブスター自身は、『あしながおじさん』の3年生の1月の手紙にあるように、フェビアン協会的な漸次的社会主義化を考えたのではないかと思われるのですが、それについてはまた。


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ビンゴの唄 Bingo Songs [Marginalia 余白に]

BINGO! BINGO! 生まれて初めてピンと来た♪ 

カリフォルニア時間のころを思い出して、ソネット限定話題から――

ソネットのビンゴが諸事情により2009年11月で終わることになったので、最後に生まれて初めて3列ビンゴをねらってみようという気になりました。1列ビンゴが出来るときには敢えてそれをスタンプせず、待ちに待った数週間。そして今朝――

WS000275.JPG

BINGO! BINGO! あなたにめぐりあえた[finally]

  と、ビンゴの唄を歌いたい気分だったので、ひさしぶりに童謡のはなし――


"Bingo" (2:39) posted by "serenade2008" on January 2, 2008:

" 'The most popular chidren's song in the world'
'Let's sing with TOONBO(TM). The music from Dr. Bugs Bower and animation producer & director Jae & Ken.
More info visit
http://... "
  いちおう歌詞はつぎのようです(典拠のあるテクストが見つかったらなおします)――
There was a farmer had a dog
And Bingo was his name-O
B-I-N-G-O!
B-I-N-G-O!
B-I-N-G-O!
And Bingo was his name-O!
 
  この歌は、英語のウィキペディア "Bingo (song)" <http://en.wikipedia.org/wiki/Bingo_(song)> によれば、起源は不詳。ただ、あのなつかしい『WORLDFOLKSONG』 のサイトでは「アメリカ民謡・スカウトソング」に分類している〔「ビンゴの歌 BINGO SONG 歌詞・日本語訳・試聴」 <http://www.worldfolksong.com/kids/song/bingo.htm>〕ものの、Wikipedia は19世紀末のイギリス各地のヴァージョンに言及しています。そして、初期の歌詞を掲載しています。――

The earliest known form (recorded in 1888) is as follows:[1]

A Franklyn's dogge leped over a style,
And hys name was littel Byngo.
B with a Y—Y with an N,
N with a G—G with an O,
They call'd hym littel Byngo!

Thys Franklyn, syrs, he brewed goode ayle,
And he called it Rare good Styngo!
S, T, Y, N, G, O!
He call'd it Rare goode Styngo!

Nowe is notte thys a prettie song?
I thinke it is, bye Jyngo,
J wythe a Y—N, G, O—
I sweare yt is, bye Jyngo!

English folklorist Alice Bertha Gomme recorded eight forms in 1894. Highly-differing versions were recorded in Monton, Shropshire, Liphook and Wakefield, Staffordshire, Nottinghamshire, Cambridgeshire, Derbyshire and Enborne. [2]

  最初は BYNGO――ってBINGO じゃないやん。勝手に推測(妄想)すれば、アメリカに渡った歌が、ゲームのビンゴならびにその掛け声のイメジとちょっと重なったりしちゃって、アメリカで、替え歌も含め、広範に歌われるようになったのではないかと。

  それにしても、この歌は、「ゆかいな牧場〔マクドナルドじいさんは農場をもっていた〕」の歌にメロディーも歌詞も似ているように思われるのは気のせいなのでしょうか〔「November 15 マクドナルドじいさんの農場の動物 Old MacDonald Had a Farm 王老先生有塊地」参照〕? 

    それと、There was a farmer [who] had a dog.  という歌詞の英語もアメリカ英語だからなのではなかろうかと思われ。

WS000274.JPG

  うっしっし

//////////////////////////////////////////

「ふとした英語の疑問」 <http://www.irl.co.jp/toranomaki/eigo.htm> 〔Q5 と Q6 を参照〕

「「語り」のかたち-自発的な談話における話し言葉のすがた- (わかったこと)」 <http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10019123/0/kouza/section9.htm> 〔基本的に上と同様に旧情報・新情報という理屈〕

"Let's Get Literal" posted by Neal on June 25, 2004 <http://literalminded.wordpress.com/2004/06/25/lets-get-literal/> 〔ブログ Literal-Minded: Linguistic commentary from a guy who takes things too literally

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タグ:ビンゴ BINGO
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ジーン・ウェブスターが1年生のときのヴァッサー女子大の「カタログ」(1) 入学試験など The Vassar College Catalogue of the Academic Year When Jean Webster Was a Freshman [Marginalia 余白に]

ジーン・ウェブスターが入学した1897-98年度のヴァッサー女子大学の便覧 (catalogue) は、1897年11月付で大学の所在地ポーキプシー市の A. V. Haight という印刷屋が発行しています。

WS000278.JPG
Thirty-Third Annual Catalogue of the Officers and Students of Vassar College, Poughkeepsie, N. Y.: 1897-98 (Poughkeepsie: A. V. Haight, 1897)<http://www.archive.org/stream/annualcatalogue00collgoog#page/n647/mode/2up>

  下のほうに目次を書き留めますが、最初に載っている学事暦 (college calendar) を先に貼ってみます。――

CollegeCalendar,VassarCollege1997-98Catalogue.jpg
(クリックでボケて拡大)

  これを見ると、9月17日に大学修業課程 (college exercises) は(少なくとも暦の上では)既に始まっておるというのに、「カタログ」の発行が11月でいいんでしょうか? もっとも入学試験の日程が9月15日から18日となっていて、ありゃりゃ、17日とはやっぱり学事暦上のものでしかなく、ちょうど『あしながおじさん』の各学年の最初の手紙が9月24日とか25日とかであるように、すぐには授業は始まらないのかもしれません。そしてまた、教職員や在校生の名簿はともかく、新入生の名簿も記載するとなると、それなりの時間がかかるのも当然かもしれません。しかし・・・・・・オリジナル(1st Annual Catalogue)のように入学資格が記載されるのと同時に、もしも新入生の名簿が記載されるとなると、入学資格の記述は新入生につづくのちの受験生むけのものということになるのでしょうか。目次はつぎのようです。――

WS000294.JPG

  読みにくいので、書き写しました(なんかページ番号が波打ってますが)。――

CONTENTS.
                                                      PAGE.   
Calendar,   .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  4
Board of Trustees,      .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  6
Standing Committees of the Board,     .  .  .  .  .  .  .  .  .  .     7
Officers of Government and Instruction,   .  .  .  .  .  .  .  .  .    8
Preachers,     .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .       13
Non-Resident Lecturers,     .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    14
Requirements for Admission to the Freshman Class,  .  .  .  .    15
Examinations,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    20
Certificates,      .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    21
Admission to Special Courses,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    22
Painting and Music,   .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    22
Courses for Teachers,  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    23
Admission to Advanced Standing,  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    23
Courses and Methods of Instruction,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    24
Lectures,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    57
Graduate Courses,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    58
Fellowships,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    58
Graduate Scholarships,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .     59
Degrees,      .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    59
Prizes,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .      62
Scholarships,  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  63
Vassar Students' Aid Society,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  65
The College,     .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .   66
Expenses,     .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .   78
Correspondence,     .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .   80
Teachers' Registry,  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .   80
Students,     .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    81
Alumnæ Associaton,    .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .    97

 1890年代の catalogue を見てみると、目次の並びには変化があるようで、たとえば1890-91 年の便覧だと、学生の名前の一覧 (Students) は最初のほうに出てきて、逆に学事暦 (Calendar) は最後についていたりします。そして、どうやら1865-66年版にあった "Conditions of Admission" (入学資格)は1890-91年版では "Requisites for Admission" に、1897-98 年版では "Requirements for Admission to the Freshman Class" (15ページ)に、名前と変えているようです。だとすると、受験生向けとか在校生向けとかなんとかいうより、その年度の規程や事実の記録という感じなんすかね。

  えーと、いまあれこれ読みふけってみたところ、15ページからの入学案内につづく 20(-21)ページの "Examinations" というのは入学試験そのものについての説明で、1898年新入生試験についての案内が載っているのでした。――

WS000296c.JPG
WS000297.JPG
(pp. 20-21)

    本学 (the College) で1898年6月1,2,3,4日と9月21,22,23,24日に実施。一年次の入学試験については(ということは、編入があるということです)、地方入試も実施されています――1898年5月の最終週から6月の第一週にかけて、Chicago, Cincinnati, Cleveland, St. Louis, Detroit, Louisville, Atlanta, Washington, Omaha, Denver, San Franciscoで。東部だけでなくて、中西部、南部、そして西海岸のサンフランシスコまで、地方入試を実施しておるのでした。なるほど、それでジーン・ウェブスターと同じ年の新入生に、サンフランシスコ出身の学生が二人おるわけですね。

  (寮の)部屋は試験が完了するまで入室できないとか、大学のそばのコテッジが宿泊施設として利用できるとか、在校生は金曜まで新たに入れない(?)〔年度末に部屋を空けねばならんということでしょうか??〕とか、会計の手続きを済ませるまで部屋には入れないとか書いてあります。

  しかし・・・・・・水曜から金曜(ないし土曜)にかけての3日間(ないし4日間)の試験で要求されている科目は、「ラテン語」「英語」、「幾何学」「歴史」、「ギリシア語、独語、仏語」「代数学」、「独語、仏語(第3外国語の場合[?])、となかなかたいへんそうです(くわしい課題が、"Candidates for the Freshman Class are examined in the following subjects" の見出しのもとに、15ページから20ページにかけて書かれています)。

  よくわからないのですが、この examinations は、2年次以上の編入の「審査」も含まれているようですし、新入生は基本的に試験を受けるらしいとはいえ、それはcertificateで免除されうるとも書かれています。certificate ――いろんな意味がありうるのですが、ここでは、高校の教育レヴェルとか、かつてヴァッサーに卒業生を送っている学校かとか、そういうのが証明されるような書類のことみたいです――で入学する女子がどれくらいいたのか、わかりません。応募の際にcertificates を皆送るような感じもありますし・・・・・・。今を考えると、一般にアメリカの大学だと、ある種の certificate 的な書類で入学すると思うのですけれど。ちょっとアメリカの大学の歴史について調べてみないと。

  で、application は部屋の確保のために早めに、とも前のほうには書かれていて、特に9月になってからの入学間際の試験で落ちるみたいなのはあったのかなかったのか、ただ学力レヴェルの確認のためのものなのか、よくわからないのでした(無知を知ったのでした)。

  ということで、ジーン・ウェブスターがFreshman として記載されている箇所の拡大版画像でお茶を濁しますw  氏名のあとに出身地(市町村)が書かれているようです。Fredonia からというのはウェブスターひとりでした。

Vassar1897FreshmanClass6detail.jpg


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ジーン・ウェブスターが3年生までのヴァッサー大学の学年暦 Vassar College Calendars, 1987-1890 [Marginalia 余白に]

参照可能なヴァッサー女子大学のカタログ(1897-98版と1898-99版)の記述をまとめてメモ的に書き写し、貼り付けておきます、とりあえず。

  まず、下のは前に貼ったページです。

CollegeCalendar,VassarCollege1997-98Catalogue.jpg

Thirty-Third Annual Catalogue of the Officers and Students of Vassar College, Poughkeepsie, N. Y.: 1897-98 (Poughkeepsie: A. V. Haight, 1897), pp. 4-5 <http://www.archive.org/stream/annualcatalogue00collgoog#page/n647/mode/2up>

以下、なんとなく日付と事柄を左右ひっくり返して3年分記します。

1897.
September 15-18.  Examinations for Entrance

September 17.  College exercises begin at evening

November 25.  Thanksgiving Day

December 3.  Anniversary of the Philalethean Society

December 17.  Christmas Vacation begins at 11.20 a. m.

1898.
January 4.  College Exercises begin at 8.30 a. m.

January 24-28.  Semester Examinations

January 31.  Second Semester begins

March 25.  Spring Vacation begins at 11.20 a. m.

April 6.   College Exercises begin at 8.30 a. m.

April 7.   Last day for applying for Graduate Scholarships

April 8.   Essays for Helen Kate Furness Prize due

April 29.   Founder's Day

May 1.  Last day for submitting theses for advanced degrees

May 1.   Last day for applying for Babbott Fellowship

May 25.   Senior vacation begins

May 30-June 3.  Semester Examinations

June 5.   Baccalaureate Sunday

June 7.   Annual Meeting of the Board of Trustees

June 8.   Thirty-third Annual Commencement

June 1-4;
September 21-24.  Examinations for Entrance

September 23.  College Exercises begin at evening

November 24.  Thanksgiving Day

December 2.  Anniversary of the Philalethean Society

December 23.  Christmas Vacation begins at 11.20 a. m.,

1899.
January 10.  College Exercises begin at 8.30 a. m.

January 30-
February 3.  Semester Examinations

February 6.  Second Semester begins

March 24. Spring Vacation begins at 11.20 a. m.

April 5.    College Exercises begin at 8.30 a. m.

April 6.  Last day for applying for Graduate Scholarship

April 7.  Essays for Helen Kate Furness Prize due

April 28.  Founder's Day

May 1.  Last day for submitting theses for advanced degrees

May 1.   Last day for applying for Babbott Fellowship

May 31.  Senior vacation begins

June 5-9.  Semester Examinations

June 11.  Baccalaureate Sunday

June 13.  Annual Meeting of the Board of Trustees

June 14.   Thirty-fourth Annual Commencement

June 7-10;
September 20-23. Examinations for Entrance

September 22. College Exercises begin at evening

November 23. Thanksgiving Day

December 1. Anniversary of the Philalethean Society

December 22. Christmas Vacation begins at 11.20 a. m.

1900.
January 9. College Exercises begin at 8.30 a. m.

January 29-
February 2. Semester Examinations

February 5. Second Semester begins

March 23. Spring Vacation begins at 11.20 a. m.

April 4.  College Exercises begin at 8.30 a. m.

April 27.  Founder's Day

June 13.  Thirty-fifth Annual Commencement

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  とりあえずひとつだけ。クリスマス休暇の始まりというのは、毎年金曜日だというのはわかります。これはカリフォルニアにいるときに書いた「December 12 ロケッツのクリスマス・ショーをホールデン・コールフィールドは期待していなかったっていえるのかい Had Not Holden Colefield Expected to Watch the Rockettes Christmas Pageant」で、モーリちゃんの通っていた学校の休みが土曜日からということから、「アメリカの学校は金曜日までやってから休みに入る」のかと推測したように、年毎に曜日にあわせて日が変わるのだと思われ。その帳尻は一月の始業日を前後させて調整するようです。それにしても、「午前11時20分より」クリスマス休暇が始まる、と細かく書くところがヴァッサー的。逆に金曜の午前11時20分まではまだ冬休みじゃないのですね。あー、それとも、アルバニーの小学校も、金曜に学校へ行って、その日の課目等が終わるとその日に休暇に入る、という約束なのかしら。

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子らよ My Chillun [Marginalia 余白に]

ある事情があって、ルイーザ・メイ・オルコットのいわゆる処女小説『気まぐれ Moods』 (初版1864; 第2版1882)をパラパラ見ていたのですが、2版の序文でオルコットが自作を「子供」と呼んでいるのが目にとまりました。そのこと自体はめずらしいことではないのですけれど、記事「ガス・ハウス Gas House」と「本葬・・・・・・本の火葬 Cremation of Books as Bodies」で『あしながおじさん』のジュディーの本の産みの親的ふるまいを書いたので、なんか気になって・・・・・・こういう気になりかたの処理(メモ etc)って、タイミングと勢いがあって、おそらくブログを書く前は、そのままほうっておいたことかもしれません。

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Alcott,Moods(1882)Preface-.JPG

  ( 『気まぐれ』が最初に出版されたときというのは、書かれてから何年か過ぎていたため、出版社の嗜好と都合にあうように改変がなされたので、その結果、物語の元々の目的が見失われ、主題として、徳義(principle)ではなく衝動に導かれた気まぐれな性質の誤りにかわって、結婚がおもてに出ていました。結婚という主題については18歳の少女はわずかしか知らず、気まぐれについてはたいていの少女が多くを知っているのです。そして、私の読者のなかで少女たちだけがこの本の真の目的を、本の多くの短所にもかかわらず見抜いて、私にそのことの礼を言ってくれてきたのでした。
  少女の直観と想像力が感じ、述べようとしたものの正しさを、大人の女の観察と経験は保証してくれましたので、私は、私の最初の小説を、その欠点はそのままに、それよりは成功した妹たちのなかまに場所を与えたいと願っています。この本には、その後の本が持っていない愛と労苦と情熱がこめられていたのですから。
  いくつかの章が省かれ、もともとあったいくつかの章が復元されています。そして、残ったものについては、このささやかなロマンスの若々しい精神を壊さないでできるかぎり余分な文章を切り取りました。18歳では、死はシルヴィアの難局の唯一の解決と思われました。しかし30年後、失意ののちに幸福をみいだし、愛と義務に手と手を携えさせる可能性を学び、私のヒロインは、前の版よりもロマンティックではないかもしれないけれどもより賢明な運命に向かいあうのです。
  若い人たちがこの改訂を受け入れてくださることを、そして、年長のかたがたが、不運な子供をこそ最もいとおしいものとする母性本能に同情を寄せててくださることを希望して、私は、私の初生児 (first-born) を、私のその後の子供たち (off-spring) を親切に歓迎してくれた公衆に再紹介いたします。
                                L・M・オールコット

    コンコード  1882年1月)

    よくわからんのが、終わりから2番目の段落の "At eighteen" と "thirty years later" のところです。この序文だけ読むと、30年前、つまり、1832年生まれで、この第2版が出た年に50歳になる作家が、30年前の10代のころの若書きの処女長篇について、自分の人生の経験とあわせて語っているように見えます。けれども、『気まぐれ』の草稿の執筆は1860年の5月に始められたということが年譜から確認されますし、書き終わった8月の日記では「4週間のあいだ日中ずっと書き、夜もほとんど一晩中考えていた」と書いています。出版は、確かに数年の間があいて、1864年暮れでした(Boston, 1865)。

  18歳というのは最初の段落にも出てきて、これはヒロインSylvia について言っているのかとも思ったのですけれど、――第3章でシルヴィアは18歳だけれど、4月生まれの彼女は話のおわりのほうでは21歳になっていると思うし、いや、そもそも終わりから2番目の段落と関係しているのだとすれば、これはやっぱり作家自身のことかと。それとも作家と、ヒロインが、あるいは作品がシンクロしちゃっているのでしょうか。

  謎をはらみつつ、謎解決のめどもたたぬままつづく~♪

 ///////////////////////////////

初版のリプリントのE-text
Louisa May Alcott, Moods (Boston: Loring, 1864)
<http://www.archive.org/details/moodslouisaalcot00alcorich>

WS000322.JPG
Moods 初版 (Boston: Loring, 1864) の(リプリントの)扉絵 <http://www.archive.org/texts/flipbook/flippy.php?id=moodslouisaalcot00alcorich>

第2版のE-text
Louisa May Alcott, Moods: A Novel (Boston: Roberts Brothers, 1882)
<http://www.archive.org/details/moodsnovel00alcorich>


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フランケンシュタインの産みの親――子らよのパート2 Progenitor of Frankenstein: My Chillun, Part 2 [Marginalia 余白に]

(BGM は「子らよ」です。)

昨日の記事「子らよ My Chillun」には、ビール(ほんとは発泡酒)を飲みながら適当にやっつけた訳文を付けたのですが、読み直してみると、わかりにくいところがありました。それで、ほんとうはつづきの解答は得られておらないのですけれど、とりあえず補足をして、ついでにお茶を濁しておきたいと思います。

  英語の原文をちゃんと打ってみます。

PREFACE

WHEN "Moods" was first published, an interval of some years having then elapsed since it was written, it was so altered, to suit the taste and convenience of the publisher, that the original purpose of the story was lost sight of, and marriage appeared to be the theme instead of an attempt to show the mistakes of a moody nature, guided by impulse, not principle.  Of the former subject a girl of eighteen could know but little, of the latter most girls know a good deal; and they alone among my readers have divined the real purpose of the book in spite of its many faults, and have thanked me for it.
     As the observation and experience of the woman have confirmed much that the instinct and imagination of the girl felt and tried to describe, I wish to give my first novel, with all its imperfections on its head, a place among its more successful sisters; for into it went the love, labor, and enthusiasm that no later book can possess.
     Several chapters have been omitted, several of the original ones restored; and those that remain have been pruned of as much fine writing as could be done without destroying the youthful spirit of the little romance.  At eighteen death seemed the only solution for Sylvia's perplexities; but thirty years later, having learned the possibility of finding happiness after disappointment, and making love and duty go hand in hand, my heroine meets a wiser if less romantic fate than in the former edition.
     Hoping that the young people will accept the amendment, and the elders will sympathize with the maternal instinct which makes unfortunate children the dearest, I reintroduce my first-born to the public which has so kindly welcomed my later off spring.

 

                        L. M. ALCOTT. 

CONCORD, January, 1882.

  (『気まぐれ』が最初に出版されたときというのは、書かれてから何年か過ぎていたため、出版社の嗜好と都合にあうように改変がなされたので、その結果、物語の本来の目的が見失われ、主題としては、徳義(principle)ではなく衝動に導かれた気まぐれな性質の誤りという主題にかわって、結婚がおもてに出ていました。結婚という主題については18歳の少女はわずかしか知りえず、気まぐれについてはたいていの少女が多くを知っているのです。そして、私の読者のなかで少女たちだけがこの本の真の目的を、本の多くの短所にもかかわらず見抜いて、私にそのことの礼を言ってくれてきたのでした。
  少女の本能と想像力が感じ、述べようとしたものの正しさを、大人の女の観察と経験は保証してくれましたので、私は、私の最初の小説を、その欠点はそのままに、それよりは成功した妹たちのなかに場所を与えたいと願っています。この本には、その後の本が持っていない愛と労苦と情熱がこめられていたのですから。
  いくつかの章が省かれ、もともとあったいくつかの章が復元されています。そして、残ったものについては、このささやかなロマンスの若々しい精神を壊さないでできるかぎり余分な文章を切り取りました。18歳では、死はシルヴィアの難局の唯一の解決と思われました。しかし30年後、失意ののちに幸福をみいだし、愛と義務に手と手を携えさせる可能性を学び、私のヒロインは、前の版よりもロマンティックではないかもしれないけれどもより賢明な運命に向かいあうのです。
  若い人たちがこの書き直しを受け入れてくださることを、そして、年長のかたがたが、不運な子供をこそ最もいとおしいものとする母親の本能に同情を寄せてくださることを希望して、私は、私の初生児 (first-born) を、私のその後の子供たち (off-spring) を親切に歓迎してくれた公衆に再紹介いたします。
                                L・M・オールコット

    コンコード  1882年1月)

 

    (ひとことだけ、オルコットの文章についてφ(..)メモメモ・・・・・・オルコットは文章作法について助言を求められたときに、多すぎる修飾を避けることやセンテンスを短くすることなど挙げていたと思うのですが、この4つの段落は6つのセンテンスからなっていて(二つのパラグラフは一つのセンテンスということです)、息が長いですね。もっともセミコロンの使用でセンテンスとしてまとめているところが三箇所あって、つまるところ論理を重視して文を構築している感じが強く、息が長いといっても語りのスタイルというのとは違うと思います。)

  さて、我ながらわかりにくいと思ったのは「妹たち sisters」 のくだりです。ここで妹たちというのは、作家オルコットの最初に生み出した長篇小説(=初生児 first-born)『気まぐれ』(1864)を長姉としてそののちに世に出た、たとえば有名な『若草物語 Little Women』(1868)やその連作のことです。最初「姉妹たち」と訳したのですが、みんな年下だから「妹たち」かなーと。それにしても、理由は年下をいうためであったかもしれませんが、はからずも作品のジェンダーがあらわれてしまっているのがおもしろいと思います。オルコットにとって本(作品)は女子だったのね。(もっとも「姉妹作」とか日本語でも言うし、そのへんは別種の「コンヴェンション(常套)」があるのかもしれませんが。)

  で、解答が得られない年代問題ですけれど、ほんとうは20年前のことを30年前といい、それが自らの少女時代の18歳とシンクロするという虚構を、意識的にかなかば思い違いでかオルコットはこしらえてしまったのでしょうか(わかりません)。

  と、補足はそれくらいにして、前の記事でほんとうは書きたかったことを少し書いておきます。ひとつは、作品を「わが子」ととらえることは、男もあるかもしらんけれど、女に多くみられ、男の場合は、なかばテレカテライからかもしれませんが、スカトロジカルな比喩が多いんじゃなかろうか(嘘かもしれず検証必要・・・・・・むろん序文やあとがきでウンコと書く作家はおらんでしょうけれど(爆))。もうひとつは、『あしながおじさん』でジュディーが作品の「不滅性」 "immortality" になんとなく触れることについて、「芸術は長く人生は短い」というギリシア以来の常套的観念から、文字を刻むこととか手紙を書くこととか、ふと思い出したことを書きとめようと思ったのでしたが、これはまとまっていません。

  いったい、省みると、こういう想念をこのごろ寝ながら考えているふしがあるのですけれど、先週あけがたに思い浮かんだのはメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』でした。シェリーが序文で作品を子供と呼んでいた記憶が残っていたのです。で、さっき六畳のトイレに埋もれていた翻訳を掘り出すとともに、英語の原文も確認しましたので、オルコットとどう比較対照できるか頭を悩ませることはしないで、そのまま排出しておきたいと思います。1818年の初版の序文は旦那のパーシー・ビッシュ・シェリーが書いたようですが、夫が1822年に水死したのちの1831年版でみずからが書いた「まえがき」です。――

Frankenstein (1831) Introduction.JPG
Mary Shelley, Introduction, Frankenstein, 2vols. (1831) <http://www.archive.org/texts/flipbook/flippy.php?id=ghostseer01schiuoft>

    ちょっと前から、創元推理文庫の森下弓子訳を引用します――

  初めはほんの数ページ――短い話のつもりだった。それをシェリーが、着想を展開させてもっと長いものにしたらよいと強くすすめた。ひとつの事件も、ほとんどひとつながりの感情も夫の提案に負うことはなかったと断言できるが、それでもやはり夫の激励なくしては、物語がこのようなかたちをとって世に出ることはなかったであろう。右の宣言〔1816年のスイスでのバイロンやポリドリら一団の怪談づくりのコンテストにおいて、話を考えついたという宣言〕から序文だけは除外しなくてはならない。記憶にあるかぎり、序文はそっくり夫の手になるものである。
  そして今ふたたび、幸運を祈りつつわたしは醜いわが子 (my hideous progeny) を世におくりだす。この子供にわたしは愛着を持っている。幸福だった日々が生みだしたもの (offspring)だから。あのころ、死や悲しみはわたしの心に真実のこだまを持たないただの言葉にすぎなかった。いくつかのページには、わたしがひとりぼっちでなかったころの、散歩や馬車の旅や会話の数々が語られている。伴侶であったあの人に、二度とこの世で会うことはない。でもそれはわたしのひとりごと。こうした連想に読者のみなさんは何のかかわりもないのだから。
  おこなった改訂についてひとことだけつけ加えておきたいと思う。おもに文体上のそれである。物語の一部を変えたり、新しい着想や状況をとり入れるといったことはしていない。言葉があまりに単調で語りの興をそぐようなところはあらためたが、そういう改変はほとんどすべてが第一巻の初めに集中している。全体を通じてそれらはみな、物語のほんの添えものにすぎない部分にかぎられ、核となり本質となるものには手を触れていない。
                                    M・W・S
                 一八三一年十月十五日 ロンドンにて 〔創元推理文庫, 1984, 12-13〕

   たしか、書き直しはもそっと大幅なものであったと記憶しておりんす。

  作家というのはいろいろとつくりごとをするものなのでしょう。か。

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 Frankenstein (1831).JPG
Mary Shelley, Frankenstein (1831), frontispiece

 


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醜いわが子――子らよのパート3 My Hideous Progeny: My Chillun, Part 3 [Marginalia 余白に]

前の記事で、ちょっと投げやりに『フランケンシュタイン』の「まえがき」を引きっぱにしたところがあって、気になっていました。メアリー・シェリーが「醜いわが子」と呼んでいるのはフランケンシュタインの怪物ではなくて、作品(本)のことだという自信はあったのですけれど、なんで我が子を hideous と呼ぶか。いかにもモンスターのことを指しているように感じられます。

  で、調べてみると、実際、"hideous progeny" というフレーズは怪物を指すごとく受容・使用されている場合が多々あるのでした。

(a) 
The creature – "my hideous progeny" – was not given a name by Mary Shelley, and is only referred to as "The Monster", "The Creature" and "Frankenstein's Monster", or as Victor Frankenstein called his creation more commonly, "the fiend." After the release of James Whale's popular 1931 film Frankenstein, the filmgoing public immediately began speaking of the monster itself as Frankenstein. A reference to this occurs in The Bride of Frankenstein (1935) and in several subsequent films in the series, as well as in film titles such as Abbott and Costello Meet Frankenstein. 〔"Frankenstein - The name of the creature" <http://www.experiencefestival.com/a/Frankenstein_-_The_name_of_the_creature/id/5062662> 太字で強調付加〕

(b) 
この場面は、様々な点で、メアリーの「現代のプロメテウス」ヴィクターが創り出した”hideous progeny”を反転させて、ハイブリッドは怪物かそれとも新しい美しい創造なのかという問いに、新しい答えを提示しようとしている。〔アルヴィ宮本なほ子「ロマン派的身体――Percy & Mary Shelley を中心に」 <http://web.hc.keio.ac.jp/~asuzuki/BMC-HP/pastaction/past2000/paper/miyamoto.html> 太字で強調付加〕

(c) 
Mary Poovey, The Proper Lady and the Woman Writer: Ideology as Style in the Work of Mary Wollstonecraft, Mary Shelley, and Jane Austen. Chicago: U of Chicago P. 1984.  Ch. 4: "'My Hideous Progeny': The Lady and the Monster."

もっとも次のように欲張って、"hideous progeny" の指示を作品・怪物・著者の三つであるというような論文(?) もあります。――

Reinforcing this emphasis on hypertext as "femininely" embodied are links that re-embody passages from Shelley's text into contexts which subtly or extravagantly alter their meaning.  A stunning example is the famous passage from the 1831 preface where Mary Shelley bids her "hideous progeny go forth and prosper" (qtd. in story/severance/hideous progeny).  "I have an affection for it, for it was the offspring of happy days, when death and grief were but words which found no true echo in my heart.  Its several pages speak of many a walk, many a drive, and many a conversation, when I was not alone; and my companion was one who, in this world, I shall never see more.  But this is for myself; my readers have nothing to do with these associations" (qtd. in story/severance/hideous progeny). In the context of Frankenstein, "hideous progeny" can be understood as referring both to the text and to the male monster.  As Anne Mellor points out, taking the text as the referent places Mary Shelley in the tradition of female writers of Gothic novels who were exposing the dark underside of British society.  When the monster is taken as the referent, the passage suggests that Mary Shelley's textual creature expresses the fear attending birth in an age of high mortality rates for women and infants--a fear that Shelley was to know intimately from wrenching personal experience.  Moreover, in Barbara Johnson's reading of Frankenstein, Shelley is also giving birth to herself as a writer in this text, so her authorship also becomes a "hideous progeny."  The rich ambiguities that inhere in the phrase make Jackson's transformation of it all the more striking.  〔Katharine Hayles, "Flickering Connectivities in Shelley Jackson's Patchwork Girl: The Importance of Media-Specific Analysis" (2000); Annabel Margaret van Baren, "Stitch and Split: Feminist Alternatives to Frankensteinian Myths in Shelley Jackson's Patchwork Girl" (2007)〕

  まあ、そういうレトリックを誘うものがあるのだろう。それでも、確認しておかねばならぬのは、作品中被造物(怪物)と創造者(科学者)がダブリングを起こしているとはいえ、そしてその後の、特に映画のイメジによってフランケンシュタインが怪物の名と混同される事態が起こったとはいえ、フランケンシュタイン Frankenstein は「Frankenstein's monster フランケンシュタインの怪物」をつくった科学者の名前であり、作品(本)の「フランケンシュタイン」が作者のprogenyであると言うことが即座に怪物につながらないということです。つまり、メアリー・シェリーの hideous progeny が第一に作品『フランケンシュタイン』で、第二にフランケンシュタインだとして、その第二のものは怪物をhideous progeny として創り出す人間を指しているということ。

  そして、ここではなによりもまずは小説(作品)を指しているのであって、それはそのあとの "it" の指示と内容を考えれば明らかだと思います。

And now, once again, I bid my hideous progeny go forth and prosper.  I have an affection for it, for it was the offspring of happy days, when death and grief were but words, which found no true echo in my heart.  Its several pages speak of many a walk, many a drive, and many a conversation, when I was not alone; and my companion was one who, in this world, I shall never see more.  But this is for myself; my readers have nothing to do with these associations.

  それにしても、自作を子供(オルコットとはちがって progeny ということばですけれど)と呼びながらそれに hideous という形容をつけるのはひでーなーとは思います。

Frankenstein (1831).jpg
『フランケンシュタイン』1831年改訂版第1巻扉絵

  メアリー・シェリー (Mary Shelley, 1797-1951) の母親は有名な女権論者のメアリー・ウルストンクラフト (Mary Wollstonecraft, 1759-97) で、父親は作家でアナキストのウィリアム・ゴドウィン (William Godwin, 1756-1836) ですが、母親はメアリーを生んで10日くらいして産褥熱で亡くなっています。メアリーは妻帯者であった詩人のシェリーと不倫をして、奥さんはハイドパーク内のSerpentine 池に身を投げて自殺(1816年12月)。メアリーは1816年暮の結婚前も含めて少なくとも4度は妊娠しますが、1815年に早産で生まれた女の子は2週間で死去、1816年1月に生まれた第二子William は1819年6月に亡くなります。1817年9月には第三子のClara を産んでいますが1818年9月に亡くなります。1819年11月第四子Percy Florence 誕生。こういう、自らの出産と母親の出産に関する辛い実体験が、子供として本を生むという比喩において暗い影を落としたということはあるのでしょうか。ゴシック小説を女性が書くという伝統は今日の大衆小説の一分野としての gothics まであるとはいえ、その恐怖は(フィジカルな)ホラーというよりはテラーが一般的だったのを、ホラーのモンスターを創造したことへのなんらかの実人生の投影的な自覚があったのでしょうか。

  オルコット (1832-88) の両親もフェミニズムを含む進歩的な思想に傾倒していましたが、母親のAbigail は1877年まで生きて『若草物語』の Mrs. March のモデルとなっています。オルコットは生涯独身を通して、父親の超絶主義哲学者ブロンソン・オルコット (Amos Bronson Alcott, 1799-1888) が亡くなった1888年3月4日の二日後に55歳の生涯を閉じています。オルコットのほうは、現実の体験がないぶん比喩が抽象化ないし夢想化されているのでしょうか。

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frankenstein5.jpg
Frankenstein: The Man Who Made a Monster (1931), image via "Frankenstein Links" Bibi's box <http://bibi.org/2005/09/frankenstein_li/> 〔Bibi さんのブログ 2005.9.20〕

Frankenstein (1931).jpg
Frankenstein: The Man Who Made a Monster (1931), image via "Frankenstein (1931 film)" Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Frankenstein_(1931_film)>


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エドワード・ノブロックの『キスメット』のアメリカ版に記された鉛筆書きから Through Pencil Writing on the American Edition of Edward Knoblock's Kismet [Marginalia 余白に]

前の記事でなんとなくリンクした、1953年のミュージカル『キスメット』のもとになった1911年のエドワード・ノブロックの戯曲ですけれど、Internet Archive には2種4冊の、いずれもアメリカでの出版ですが、E-text がおさめられています。

  で、その1冊でカリフォルニア州立大学サンディエゴ校の蔵書らしい、1911年ニューヨークで出版された本は、やたらに書き込みがありました。たとえば30-31ページ。――

WS000342.JPG
Edward Knoblauch [Knoblock], Kismet: An "Arabian Night" in Three Acts (New York: George H. Doran, 1911), 30-31 <http://www.archive.org/stream/kismetanarabiann00knobiala#page/30/mode/2up>

   左のページの上のほうには、 "Music   'Turkish Patrol'" と書かれているようです。"The Turkish Patrol" というのは、(Gustav) Theodore Michaelis テオドール・ミヒャエリス(?)という人 (1831-87) の作曲した曲のようです($2.95 の譜面 @FreeHand Music <http://www.freehandmusic.com/search.aspx?all=&title=turkish+patrol,+the>)。で、どうやら芝居上演用のアイデアを入れた書き込みのようなのです。

  扉にはふたりの署名がありました。――

WS000341.JPG

Joe S. Bell
March 1915
New York

Geo. E. Lask
Feb. 1921
S[an]. F[rancisco]. Cal[ifornia]

    ベルさんはわかりませんが、ラスクさんというのは George E. Lask (1884-1935) という、サンフランシスコ (S. F.) のチャイナタウンで生まれ、サンフランシスコとニューヨークで活躍した舞台演出家だと思われます。1900年にニューヨークでミュージカル Florodora (前年1899年にロンドンで初演)をプロデュースして、6人からなる女性の合唱が、まもなくFlorodora Girls と呼ばれ、アメリカのコーラスガールの先駆となった、とされています。

FloradoraGirls1.jpg
Florodora Girls

  (ありがちなことではありますが)だいたい背の同じ女性をそろえたのだそうです("each standing five foot four and weighing a uniform 130 pounds" <http://www.musicals101.com/1900to10.htm>)。それも含めて Tiller Girls を思いだしました〔いちおう自分メモ的に、「August 29 ラインダンスとフォークダンス (2)  Line Dances and Folk (2)」「August 30 OED のまとめ――ラインダンスとフォークダンス (3)  OED, QED: Line Dances and Folk (3)」「August 30 性と肉体的接触――ラインダンスとフォークダンス (4)  Gender and Physical Contact: Line Dances and Folk (4)」参照〕。

  あれっ。なんの話でしたっけ。

FlorodolaGirls2.jpg
The original Florodora sextet – Daisy Green, Marjorie Relyea, Vaughn Texsmith, Margaret Walker, Agnes Wayburn, and Marie Wils - and their male co-stars
image via "Stage Musicals 1900-1910"

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Dancer History Archives by StreetSwing.com - The Florodora Girls <http://www.streetswing.com/histmai2/d2floradora1.htm>

History of The Musical Stage 1900-1910: "Skipping a Beat, Singing a Dream" by John Kenrick <http://www.musicals101.com/1900to10.htm>

George Puttmanによる "The Turkish Patrol" のパイプオルガン演奏 (1928) オーディオ <http://www.archive.org/details/TurkishPatrol1927> 〔Internet Archive; Open Source Audio

TurkishPatrol.jpg
image via "Digital Collections - Music," National Library of Australia <http://nla.gov.au/nla.mus-vn1660966>

 

 

 

 

  

 


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ジェマイマとサミュエル姉弟 Jemima Montagu and Samuel Crewe [Marginalia 余白に]

前のいくつかの記事を訂正したのですけれど、1661年7月3日にピープスが晩御飯をご一緒する奥様は自分の奥様ではなくて人の奥様でした。

                            DIARY OF SAMUEL PEPYS.                               
                                 
JULY 1661

3rd.  To Westminster to Mr. Edward Montagu about business of my Lord's, and so to the Wardrobe, and there dined with my Lady, who is in some mourning for her brother, Mr. Saml.  Crew, who died yesterday of the spotted fever.  So home through Duck Lane' to inquire for some Spanish books, but found none that pleased me.  So to the office, and that being done to Sir W. Batten's with the Comptroller, where we sat late talking and disputing with Mr. Mills the parson of our parish.  This day my Lady Batten and my wife were at the burial of a daughter of Sir John Lawson's, and had rings for themselves and their husbands.  Home and to bed. <http://www.gutenberg.org/files/4131/4131-h/4131-h.htm>

(下線・太字部分は『あしながおじさん』の4年生2月15日の手紙で引用されている箇所)

  ウェストミンスターに行って Edward Montagu と会った、その奥様がmy Lady です。ここでMr. エドワード・モンタギュー Edward Montagu (27 July 1625 – 28 May 1672) はサミュエル・ピープスの父親のいとこにあたる人で、のちにサンドイッチ伯爵になる人――Wikipedia "Edward Montagu, 1st Earl of Sandwich"  参照。

Lely,Peter_EdwardMontagu.jpg
Edward Montagu (1625-72) by Peter Lely

   1642年11月7日に同い年の Jemima Crew(e) と17歳で結婚します。Jemima はJohn Crew(e) (1598 -12 December 1679) の娘。ジョン・クルーは1661年4月に王政復古における功績により"Baron Crew of Stene " の称号を与えられ、やがて政界を引退しますが、金持ちで邸宅に人を呼んで歓待したらしい。娘のJemima [Jemimah, Jamima] (1625-74) は1642年に Edward Montagu と結婚して、10人か11人の子供を産みます。

    サミュエル・ピープス(23 February 1633 – 26 May 1703) は親戚である Edward Montagu に雇われ、モンタギューの推挙により海軍省の長官の職に就くわけでした。

    WEB サイト The Diary of Samuel Pepys: Daily entries from the 17th century London diary は、いろいろな情報を盛りこんでいて、ちょっと驚倒しそうなくらい(日記へのreferences など)なのですが、Encyclopedia の People のなかの "Jemima Mountagu ("my Lady," Countess of Sandwich)" の項目は、いろんな人による書き込み (discussion) もあって、以下のような情報も得られました。――ピープスは8つほど年上で日記執筆時には8人の子持ちであった Jemima を慕っていたけれど、そもそも1643年ごろ(ピープス10歳、ジェマイマ18歳)には知り合いであったらしいこと、ジェマイマはピープスを家族のひとりのように考えて、子供の世話を任せたり金を借りたり、信頼が篤かったこと、またピープスのほうは理想の女性としてジェマイマを捉えていたこと。

mw81620(Jemimah).jpg
Jemima Montagu (1625-74) (18世紀の肖像) © National Portrait Gallery, London
image via National Portrait Gallery - Person - Jemimah (Crew), Countess of Sandwich <
http://www.npg.org.uk/collections/search/person.php?LinkID=mp53357> 

  1661年に spotted fever で亡くなる弟の Samuel について Encyclopedia はそれほど詳しい 情報を与えてくれていません(Wednesday 3 July 1661 の注釈は豊富ですが)。1658年にオックスフォード大学でMA を取った神学者で、1661年未婚で亡くなったことくらいです。生年も書かれておらず(ちなみに彼はウィキペディア記事の"John Crew" の子供のなかにも入っておらず)。

  それでも、検索をしつづけたら、肖像が見つかりました。エドワード・モンタギューの肖像を描いたのと同じJohn Lely の筆です――

Weiss2622009T121445(SirPeterLely,SamuelCrewe).jpg
image via Weiss Gallery <http://www.weissgallery.com/Sir-Peter-Lely-1618-1680-Samuel-Crew-1660-DesktopDefault.aspx?tabid=52&tabindex=51&objectid=171660&categoryid=2636>

Samuel Crew (?? - 1660) と、没年を間違えているところがあやしいかなしいですけれど。 

Oil on canvas: 30 x 25 in. (76.2 x 63.5 cm)
Signed with monogram 'PL' (lower left)
Painted circa 1650-52

あと、あれこれ書かれているなかで、サミュエル本人に関わるのは以下のところでしょうか。――



The sitter is an adolescent Samuel Crew, a member of a gentry family from Northamptonshire, who were to commission a number of family portraits from Lely during the 1650s. His parents were John Crew of Stene (1598-1670), M.P. and Speaker of the House of Commons (1623-5) and Jemima Waldegrave (1602-1675), the daughter and co-heir of Edward Waldegrave, of Lawford Hall, Essex. Little is know[n] about his life except that, as with his elder brother Nathaniel (1633-1721), Samuel chose an ecclesiastical life, becoming a reverend of the Protestant clergy.

兄のナサニエル(この人は教会のビショップになっています)と同様に牧師職を志したと。これを信じれば1633年以降の生まれで、Jemima の弟ということになります。

  とりあえずよかった、よかった。

  ところが、もう一枚、今度はナサニエルの肖像が見つかってしまいました。――

Lely,Peter_PortraitofNathaniel-d5159374l.jpg
image via Christie's <http://www.christies.com/lotfinder/lot_details.aspx?intObjectID=5159374>

   やっぱりJohn Lely の作品。

Lot Description

Sir Peter Lely (Westphalia 1618-1680 London)
Portrait of Nathaniel, 3rd Baron Crew of Stene, later Lord Bishop of Durham, when a young man, half-length, in a slashed black doublet and a lawn collar
signed with monogram 'PL' (lower left)
oil on canvas
30 x 25 in. (76.2 x 63.5 cm.)
in a carved and gilded frame

  ナサニエルは2rd Baron になった兄の John Crew (父親と同名)に子ができなかったので、かわって 3rd Baron になったことはWikipedia に書かれています。けど。

  どういうことでしょうか??????

  ということで、肖像はどちらのものか不明です。

  一方、さらに調査を続けているうちに、家系図を詳しく書いているサイト "Descendants of Johannes Crew de Nantwiche" にサミュエルの記載を見つけました。このページのGeneration No. 5――

Children of JOHN CREWE and JEMINA WALDEGRAVE are:

21. i. THOMAS6 CREWE, b. 1624; d. 1697.

ii. JOHN CREWE, b. Abt. 1628.

22. iii. EDWARD CREWE, b. Abt. 1630; d. 1680.

iv. SAMUEL CREWE, b. Abt. 1632; d. 1661.

23. v. WALGRAVE CREWE, b. 1637; d. 1673.

vi. ANNE CREWE, b. Abt. 1640; d. September 27, 1708; m. (1) SIR HENRY WRIGHT; d. February 05, 1662/63; m. (2) EDMUND PYE.

vii. NATHANIEL CREWE, b. January 31, 1632/33; d. September 18, 1721; m. (1) PENELOPE FROWDE, December 21, 1691; b. 1656; d. March 09, 1698/99; m. (2) DORTHY FOSTER, July 23, 1700; b. 1673; d. October 16, 1715.

viii. JEMIMA CREWE, b. July 17, 1625; d. 1674; m. SIR EDWARD MONTAGU, November 07, 1642; b. July 27, 1625; d. May 28, 1672.

More About SIR EDWARD MONTAGU:

Occupation: 1st Earl os Sandwich

  iv. の Samuel Crewe, b. Abt. 1632; d. 1661 です。"Abt" は "about" で、アバウトに1632年ごろということですが、これは vii. のNathaniel Crewe の生まれた1632/33年の1月31日とシンクロしています(つうか、ナサニエルのほうが elder だという上の Weiss Gallery の記述が正しければ、サミュエルのほうが早く生まれるということはありえず・・・・・・双子だったんでしょうか?

  画家のJohn Lely は二人の同じ絵を描いたとか(w)

////////////////////////////////

"Edward Montagu, 1st Earl of Sandwich" Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Montagu,_1st_Earl_of_Sandwich>

"Jemima Mountagu ("my Lady," Countess of Sandwich)" <http://www.pepysdiary.com/p/115.php#discussion> 〔Encyclopedia, The Diary of Samuel Pepys: Daily entries from the 17th century London diary

"Samuel Crew (Pepys' Diary" <http://www.pepysdiary.com/p/2765.php>

"Descendants of Johannes Crew de Nantwiche" <http://crewfamily.com/descendants_of_ramulphus_crewe.htm> 〔他にない詳しい情報があります〕

"The Weiss Gallery - Object Detail - Samuel Crew (?? - 1660) - Sir Peter Lely (1618-1680) <http://www.weissgallery.com/Sir-Peter-Lely-1618-1680-Samuel-Crew-1660-DesktopDefault.aspx?tabid=52&tabindex=51&objectid=171660&categoryid=2636> 〔The Weiss Gallery Current Collection 〕 

"Sir Peter Lely (Westphalia 1618-1680 London) | Portrait of Nathaniel, 3rd Baron Crew of Sterne" <http://www.christies.com/lotfinder/lot_details.aspx?intObjectID=5159374> 〔Samuel ではなくてNathaniel の肖像としている Christie's

サミュエル・ピープスの1660年の日記 <http://infomotions.com/etexts/gutenberg/dirs/4/1/2/4125/4125.htm>

サミュエル・ピープスの1661年の日記 <http://www.gutenberg.org/files/4131/4131-h/4131-h.htm>

 


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ムカデの生態 Centipedes [Marginalia 余白に]

「脚の話(2) 」とする内容ではないので、余白に書き留めます。

  ムカデは広義にゲジみたいなものまで入れるといろいろな種類があるのですけれど、いずれにしてもムカデ類は節足動物の仲間です。節足動物には昆虫もクモ類も入るわけですが、日本語のウィキペディアを見ると、全体としていろいろな分類が提案されているようですが意見の一致はないのだそうです(ほんとかどうか知りません)。いっぽうで、いちおう新らしめの分類においては、ムカデは多足亜門 Myriapoda に、ヤスデ綱(倍脚綱)Diplopoda などと一緒に ムカデ綱(唇脚綱)Chilopoda として位置づけられています(旧分類だと大顎亜門 Mandibulata として昆虫綱 Insecta甲殻綱 Crustacea とも一緒だったのが、どうやら見たところ足の多さを名称とする門にいれられてコガネムシやエビ・カニとは違う網におさまっているようです(しろうとの目から見て)。myriapoda というラテン語のmyria は"many" でpoda は "legs" であることは確かです。chilopodachilo というのは "lip" 唇という意味ですが、唇足とはなんぞや。どうやら口の後ろの体節がアゴとかも含めどういうふうに足の体節から形成されるかで名前ができているようです(頭部の次の体節に歩肢がなくてアゴができているとか)。よくはわかりません。

  英語のウィキペディアの "Centipede"日本語のウィキペディアの「ムカデ」も、なんだかカラフルな種の写真を載せていて、違和感があります。自分がむかし日本海の田舎の家で見た(子供の目ではありましたが、15~20センチくらいありました)のはオオムカデ目・オオムカデ科のトビズムカデではなかったか、と思います。これは日本では最大になるムカデのようですが、英語のリンクを見ると、"Chinese red-head centipede" となり、東アジアとオーストラリア周辺でみられる種類のようです(漢方で蜈蚣ゴコウと称される)。

  渡辺塾の「ムカデ」のページは、刺されたりひっくり返したりしてムカデを撮影し、かつ途中から英文混じりで解説・ルポルタージュしていますけれど、Scolopendra すなわちトビズムカデですので、日本の話でしょうか <http://www.geocities.jp/faithfulwata/centipede/newpage1.html>。

  ムカデはいろいろな生息場所があるみたいですけれど、アメリカの建物内に出るムカデはどういうものなのでしょう。気になります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

  図書室にこもって調べた結果、北アメリカの家に出るのはScutigera coleoptera という種みたい(自信20パーセント)。でも再びWeb で確認しようとすると、ゲジの一種だと書いている日本語のサイトがあったりするので、よくわかりませんが、はじめは足の数が少なくて、成長するにつれてどんどん数が増えるようです。そして動きが早くて、ゴキブリやハエをつかまえる。で、これは "the house centipede" とも呼ばれるようです。それから "the garden centipede" と呼ばれるのが北アメリカでもっともよく見られる種類のようですが、数インチを超えることはめったにない小さい種のようです。

  あ、英文ウィキペディアに Scutigera coleoptera 、ありました。あ、対応する日本語ウィキペディアではゲジです。えー、なんだよ~。15対しか足ないし、胴は短いし・・・・・・。

800px-Centipede_Stalk.jpg
"House centipede stalking a spider" image via Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Scutigera_coleoptrata>

   しかし、どうころんだって、これはジュディーが描いているムカデではないですよね。

WS000383.JPG

 半分じゃなくて四分割したって長さが足りないです。Scutigera coleoptera としてもっとムカデっぽい画像を載せているページもありますが、それはまちがいかもしれませんし、そもそももはやScutigera coleoptera にこだわってもしょうがないかもw。

  ただ、おそらくまちがっていないのは、"house centipede" と呼ばれることの多い種としてScutigera coleoptera がいますが、ジュディーが遭遇しているのはそれではない、ということです。そして、ゲジにしろムカデにしろ、クモやムシを食べる(当然おとなしいザトウムシも食べる)predator、carnivore であることです。そしてザトウムシと違って毒をもっています。(ザトウムシ=daddy-long-legs については「アシナガトウサン――ダディーロングレッグズ (2) Daddy-Long-Legs [Daddy-Long-Legs]」を参照)。

  で、しょうがないので、イメジと、動きと生態を把捉すべく、現時点ではでかいムカデの映像を参考にはっておくことにします。気持ち悪いものが苦手なひとはここから下は見ないほうがいいかもしれません。スペースをあけておきます。どうやら有名な『ナショナルグラッフィック』の提供のようなのですけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


"Centipede vs. Snake" (1:52) posted by NationalGeographic on June 2, 2008.


"Giant Centipede" (3:20) posted by NationalGeographic on July 12, 2007.

  あしからず。


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馬繋ぎポスト Hitching Post or Horse Post [Marginalia 余白に]

『あしながおじさん』の最初の手紙の一節。

But how can one be respectful to a person who wishes to be called John Smith?  Why couldn't you have picked out a name with a little personality?  I might as well write letters to Dear Hitching-Post or Dear Clothes-Pole [イギリス版はClothes-Prop]?  (Penguin Classics 13)
(でもジョン・スミスなんて呼ばれることを望んでいるひとに、どうして「かしこ」まったりできるでしょう。どうしてちょっと個性のある名前を選びだせなかったのですか。これではまるで馬繋ぎ柱さまとか物干し柱さま宛てに手紙を書いているようなものです。)

  記事「拝啓繋柱様 Dear Hitching-Post」の補足です。 

  OED こと『オックスフォード英語大辞典』では動詞 hitch を見出し語とした記述に派生語として(具体的には 5. a. trans. To catch as with a loop, noose, or hook; to fasten, esp. in a temporary way (and against force acting in one direction). Also fig. の意味がもっぱらと思われますが) hitching ならびにその連語が挙がっています。――"Hence hitching vbl. n. (also attrib. as in hitching-bar, -clamp, -post, -strap, -weight, i.e. one used in tethering a horse); hitching ppl. a." (vbl. n. は動名詞、ppl. a. は現在分詞の形容詞 )
   それで、特にアメリカ英語とか考えていなかったのですけれど、とりあえず "hitching-post" の最初の用例はアメリカのペンシルヴェニアがらみのものです。――

1842 J. L. SCOTT Jrnl. Missionary Tour Pennsylvania (1843) vi. 68 When at the door they alighted, and he rode off to the ‘hitching post’.

   アメリカニズム(アメリカ語・語法)の辞典のひとつ、Mitford M. Mathews の A Dictionary of Americanisms on Historical Principles (U of Chicago P, 1951) を見てみたら、OED に載っていない連語も含めて、いろいろとアメリカ英語に入れていました。――

[この細い星印は、コトバ自体(この場合は "hitching")はアメリカ起源ではないという意味です]hitching, n. attrib.  Designating objects to which horses and mules [ラバ] may conveniently be hitched, as (1) hitching bar, (2) pole, (3) post, (4) rack, (5) rail.

  なるほど、これだけいろんな名称があるなら、横木タイプのものは hitching bar とか hitching rail とか呼ばれただろうし hitching rack というのも幅があって柵みたいな形状なのだろうな、と推測されます。同時にやはり、ことばからすると hitching pole や hitching post は本来的には一本の棒・杭・柱というイメジ、そして、なんか post のほうは垂直に立っているという感じですよね。仮に総称として hitching post がありだとしても、です。
  用例が順に挙がっているのですが、その (1) の最初のもの(1787年の用例)はスクウェア・ブラケットに入っていて、語源的なことと関わるという含みです(間が4メートルくらいで地面にさした2本の杭 (post) の上に横木を渡して、そこに馬の綱をかける釘(Pin)みたいなものを等間隔で打ちつけてある)。――

(1) [1787 ATTMORE Journal 37  There was a place for horses to stand, composed of two posts set in the ground at about 15 feet distance from each other on the tops rested a cross piece with Pins at intervals for fastening the Bridles, here stood a dozen horses.]  1877  CAMPION On Frontier 128 Beyond the fire, at a similar distance from it, a 'hitching-bar was put up, to fasten horses and mules to. ― (2) 1914 BOWER Flying U Ranch 63  [They rode to the hotel, tied their horses to the long hitching pole there and went in. ― (3) 1843 J. L. SCOTT Journal 68  When at the door they alighted, and he rode off to the 'hitching post.'  1948 Newsweek 30 Aug. 19/1  No ex-governors will put a halter or bridle on me and lead me to a hitching post. ― (4) 1904 HARBEN Georgians 146  Eric rode up to a hitching-rack and dismounted.  1947 CHALFANT Gold, Guns, & Ghost Towns 69  There [he] saw tied to a hitching rack a horse to which he took a fancy, so he mounted it and rode off.  〔ここにあるスペース・改行の理由は不明〕
   (5) 1920 J. GREGORY Man to Man 103  A dozen saddle-horses were tied at the hitching-rail.  1948 Sat. Ev. Post 21 Aug. 99/2  An hour later, he leaned on the hitching rail at the post office and wished he could simply die and have it over with.

   (2) の1914年の用例の hitching pole は "long" と形容されており、水平方向に長いのでしょう。(3) の hitching post は用例(最初のはOED と同じ用例です)だけでは水平か垂直かわかりませんが、公共の場ではなくて家の玄関にあるのだとしたら1本の棒の hitching post なのかな、という気はします(気がするだけです)。

  そして、つぎのようなイラストが載っておるのでした。――

HitchingPost,DictionaryofAmericanisms(1951).jpg

  はじめ見たとき、なんやこれ、と思いました。まちがってるんじゃないの、とも。でもちゃんと "Hitching post or horse post" と書いてあります。or は「あれかこれか」ではなくて、「イコール」です。野球選手(マウンドの上のピッチャーかなんか)かと思ったのですが、ジョッキー(騎手)なのですね(目医者かな)。

 


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ジョン・スミスの『海の文法』 (1627) A Sea Grammar by John Smith (1627) [Marginalia 余白に]

SeaGrammar,A(1627)byJohnSmith.,jpg.jpg 

ジョン・スミスが1627年にロンドンの John Haviland から公刊した A Sea Grammar について、日本語ウィキペディア「ジョン・スミス(探検家)」は「スミスの著作」の項で、「英語では初めての水夫の辞書」と記しています。がどうやら前年に刊行されたAn Accidence, or the Pathway to Experience Necessary for all Young Seamen (1626) (このタイトルはウィキペディアにも挙がっている)の改増版のようです。"Accidence" というのは「基本」とか「初歩」「基礎」というような意味です。"Grammar" も、まあ、「文法」といってもよいのでしょうけれど、「入門書」とか「手引き」という意味でもあります。「文法」は誤訳やろー、という声が聞こえなくもないですけれど、結局 accidence も grammar も文法のコトバなわけです、本来(文法用語としての accidence は今日は morphology というのがふつう)。長いタイトルを含む文献情報を、The Maritime History Virtual Archives というWEB サイトが記述しています。このサイト、すごいです。――

Smith, John: An Accidence, or The path-way to experience. Necessary for all young sea-men, or those that are desirous to goe to sea, briefly shewing the phrases, offices, and words of command, belonging to the building, ridging, and sayling, a man of warre; and how to manage a fight at Sea. Together with the charge and duty of every officer, and their shares: also the names, vveight, charge, shot, and powder, of all sorts of great ordnance. With the vse of the petty tally.
Printed by N. Okes for Ionas Man and Benjamin Fisher, London, 1626 (1st). 8vo, 13,5×7,5 cm, 38 pp.
RCA records (8), 42 pp & Roberts records 4to, iv, 42 pp. Other editions 1627 (2nd) and 1636 and enlarged in A Sea Grammar in 1627, 1653, 1691, 1692, 1699 and 1705. Reprinted 1884, 1895, 1907 and 1910 in The Complete Works of John Smith. JCB has a copy with a variant dedication to Sir Robert Heath on A2r.
〔"17th Century Maritime and Naval Dictionaries" <http://www.bruzelius.info/Nautica/Bibliography/Dictionaries_1600.html>〕

  同じサイトから、 A Sea Grammar の初版 (1627) の書誌情報――

Smith, John: A Sea Grammar, with the Plaine Exposition of Smiths Accidence for young Sea-men, enlarged. Diuided into fifteene Chapters: what they are you may partly conceiue by the Contents. Written by Captaine Iohn Smith, sometimes Gouernour of Virginia, and Admirall of Nevv-England.
Iohn Haviland, London, 1627. 8vo, 16,5×10,5 cm, (12), 76 pp. Pagination irregular 55=54, 54=55, 70 unnumbered, 83-86=73-76.
Facsimile: Theatrum Orbis Terrarum, Amsterdam, 1968.
Michael Joseph, London, 1970. 8vo, xxxii, 113 pp, 10 plates. Edited by Kermit Goell.
A second and expanded edition of An Accidence, or path-way to experience, first published in 1626.

    違う出版社とはいえ、ページが38 から76と倍増しています。でも Accidence のほうの Benjamin Fisher は1636年になって基本同じタイトルで、ただし副題の冒頭を "Very necessary for all young sea-men" と強調して、62ページの本を出しているので、そんなに増補されたのではないのかもしれません。Accidence のほうはテクストを参照できないので断定できませんが、ともかく、この時点で "phrases" や "words" を解説していたことは副題からも確認できます。逆に A Sea Grammar のほうを見てみても、まさに手引書という趣きが強く、辞典という感じは弱いです。

  Encyclopedia.com は "Smith, John - FREE Smith, John information | Encyclopedia.com: Find Smith, John research" <http://www.encyclopedia.com/doc/1O123-SmithJohn.html> でハート James D. Hart の有名なオックスフォード・コンパニオン The Oxford Companion to American Literature を引いているみたいで、著作について記述している箇所はつぎのようです(ジョン・スミスの他の著作についても参考になる解説なので引用します)。――

His books are A True Relation of such occurrences and accidents of noate as hath hapned in Virginia since the first planting of that Collony (1608), a pamphlet giving the earliest firsthand account of the settlement, but not mentioning his rescue by Pocahontas; A Map of Virginia with a Description of the Country (1612), continuing the account of his governorship; A Description of New England: or the Observations and Discoveries of Captain John Smith … (1616), a narrative of his later ventures in New England and unsuccessful voyages while in the employ of Gorges; New Englands Trials (1620), a pamphlet that has been called “essentially a plea for employment,” and which was enlarged (1622) to give an account of the successes of the Pilgrims; The Generall Historie of Virginia, New England, and the Summer Isles (1624), a lengthy and more magniloquent reworking of his earlier writings, containing an extended account of the Pocahontas story; An Accidence, or The Pathway to Experience Necessary for all Young Seamen (1626), a pamphlet that was recast, probably by another hand, as A Sea Grammar (1627) and The Seaman's Grammar (1692); The True Travels, Adventures, and Observations of Captaine John Smith in Europe, Asia, Africa, and America, from …1593 to 1629 … (1630), the autobiography that furnishes information about his early life; and Advertisements for the Unexperienced Planters of New England, or Anywhere; or, The Pathway to Erect a Plantation (1631), which, in the manner of a wise scholar counseling a young pupil, addresses advice to Winthrop and his Massachusetts settlers, and contains Smith's pathetic autobiographical poem The Sea‐Mark.

  1626年の Accidence の、もしかすると別の人の手で ("probably by another hand") 書き直された ("recast") ものとして 1627 年の A Sea Grammar と 1692 年の The Seaman's Grammar を並べています。

    A Sea Grammar のリプリント版を見ると、ジョン・スミス自身の序文や献辞的やりとりも載っているので、たぶんスミス自身がかかわっていたのではないかと思われます。1692年は、そもそもスミスは没していますから、新たな編集があったとしか思われません。

  ちなみに、1644年に Henry Mainwaring というひとが The Sea-mans Dictionary: Or, An Exposition and Demonstration of all the Parts and Things belonging to a Shippe: Together with an Explanation of all the Termes and Phrases used in the Practique of Navigation.  Composed by that able and experienced Sea-man Sr Henry Manwayring, Knight . . . という本を出し、少なくとも英語圏の海事事典としてはライヴァルが登場します。1641年、ジョン・スミスは亡くなっていますが、ロンドンの Randal Taylor 社は John Smith の名で The Sea-Mans Grammar and Dictionary という新たなタイトルにして出していました。で、どうもこのマンウェアリングとスミスは(というか両者の出版社は)競っていたみたい。

ASeaGrammar(1627)byJohnSmith.JPG
<http://www.archive.org/stream/generalhistorieo02smituoft#page/208/mode/2up>

  「15章にわかれているけれど、君は目次を見ると中味がわかるよ」と表紙と同様に扉にも書かれています(なんか教科書っぽいのかw)。ということで、目次を書き留めておきます(ページは1907年の合本リプリント版第2巻のもの)。海事用語事典としては、下の参考urlsに載せた Maritime History のサイトが有益だと思います。

Chap. I.  Of Dockes and their definitions, and what belongs to them.   222

Chap. II.  How to build a Ship, with the definition of all the principall names of every part of her, and her principall timbers, also how they are fixed one to another, and the reasons of their use.  223

Chap. III.  How to proportion the Masts and Yards for a Ship, by her Beame and Keele.  237

Chap.  IIII [IV].  The names of all the Masts, Tops, and Yards belonging to a Ship.  240

Chap. V.  How all the Tackling and Rigging of a Ship is made fast one another, with the names and reasons of of their use.  241

Chap. VI.  What doth belong to the Boats and Skiffe, with the definition of all those thirteen Ropes which are only properly called Ropes belonging to a Ship or a Boat, and their use.  250

Chap. VII.  The Names of all sorts of Anchors, Cables, and Sailes, and how they beare their proportions, with their use.  Also how the Ordnance should be placed, and the goods stowed in a Ship.  253

Chap. VIII.  The charge and duty of the Captaine of a Ship, and every office and officer in a man of warre.  258

Chap. IX.  Proper Sea termes for dividing the Company at Sea, and stearing, sayling, and moring a Ship in faire weather or in a strome.  262

Chap. X.  Proper Sea tearmes for the Winds, Ebbes, Flouds, and Eddies, with their definitions, and an estimate of the depth of the Sea, by the height of the Hils and largenesse of the Earth.  271

Chap. XI.  Proper Sea tearmes belonging to the good or bad condition of Ships, how to find them and amend them.  277

Chap. XII.  Considerations for a Sea Captaine in the choise of his Ship, and in placing his Ordnance.  In giving Chase, Boording, and entring a man of warre like himself, or a defending Merchant man 〔商船〕.  280

Chap. XIII.  How to manage a fight at Sea, with the proper tearmes in a fight largely expressed, and the ordering a Navy at Sea.  284

Chap. XIV.  The names of all sorts of great Ordnance, and their appurtenances, with their proper tearmes and expositions, also divers observations concerning their shooting, with a Table of proportion for their weight of metall, weight of powder, weight of shot, and there best at randome and point blanke inlarged.  289

Chap. XV.  How they divide their shares in a man of Warre; what Bookes and Instruments are fit for a Sea man, with divers advertisements for young Gentlemen that intend to follow the Sea, and the use of petty Tally.  296

   ひさしぶりに写経の気分を味わいましたw。

    思えば、サミュエル・ピープス (1633-1703) が生まれるちょっと前の英語です。ま、17世紀間それほど変わったとも思われませんけれど、Dockes = docks とか principall = principal とか metall = metal とか、 Beame = beam とか、Sailes = sails とか、 tearmes = terms とか、inlarged = enlarged とか、今の英語と綴りが違いますし、大文字の使用も今の習慣と違います。

///////////////////////////////////////////
参考urls――

The Maritime History Virtual Archives <http://www.bruzelius.info/Nautica/Nautica.html> 〔"Etymology, including Dictionaries" の項 <http://www.bruzelius.info/Nautica/Etymology/Etymology.html> が各国語の辞典類〕

John Smith, A Sea Grammar [rpt. 1907] <http://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=lhbcb&fileName=0262b//lhbcb0262b.db&recNum=238&itemLink=r%3Fammem%2Flhbcbbib%3A@field%28NUMBER%2B@od1%28lhbcb%2B0262b%29%29&linkText=0> 〔@Library〕

John Smith, A Sea Grammar <http://www.archive.org/stream/generalhistorieo02smituoft#page/208/mode/2up> 〔@Internet Archive〕


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