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天にまします我らの父――主の祈り Our Father in Heaven: Lord's Prayer [φ(..)メモメモ]

〔「『あしながおじさん』における神 (第3のノート)」のつづき〕 

「主の祈り」は、プロテスタントでもカトリックでも唱えられる、キリスト教徒の祈祷文の中心的なもので、それはイエス自らが「山上の垂訓」において弟子たちに教えた祈りであった(マタイ福音書)からです。

「主の祈り」-Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A>
"Lord's Prayer"-Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Lord%27s_Prayer>
「主の祈りについて」-WikiForJ (by Shinri Nomachi) <http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%BC%E7%A4%CE%B5%A7%A4%EA%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6>

プロテスタント訳を引いておきます。――

天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
Our Father, which art in heaven,
hallowed be thy name;
thy kingdom come;
thy will be done,
in earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our trespasses,
as we forgive them that trespass against us.
And lead us not into temptation;
but deliver us from evil.
For thine is the kingdom,
the power, and the glory,
for ever and ever.

    つまり、「主 Lord」というのは、旧約で神であり新約でイエス・キリストでありうるわけでしょうが、「主の祈り」の「主」はイエスであり、イエスが「我らが父」と神を呼んで、人々とともに唱えるわけです。

  (1) ウィキペディアを読むまで知らなかったのですけれど、「天にまします我らが父よ」という、プロテスタントとカトリックが共有していた文句はカトリックのほうでは21世紀になって変わったのですね(あ、あくまで――う、不吉な・・・・・・あくまで追求するぞ――日本語問題)。

  (2) 三位一体的に "For thine is the kingdom, and the power, and glory, of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit, now and ever and unto the ages of ages" と唱える文言は東方教会において付加されたもの――日本語ウィキペディアにおいて、日本聖教会の「天主経」で司祭がいるときに「以下司祭朗誦・高声」として記されている文言――

けだし國(くに)と權能(けんのう)と光榮(こうえい)は爾(なんじ)父(ちち)と子(こ)と聖神゜(せいしん)に歸(き)す、

今(いま)も何時(いつ)も世々(よよ)に。

  (3) そうすっと、この「父」は、子のイエスが「我らが父」として神をさしているのだけれど、「子なる神」であるがゆえに「父」と呼ぶのではなくて、我らが(私(イエス)と人間の)父として「父なる神」をイエスは言挙げしている。だけど共通の「父」として神を呼ぶには、やっぱ人間はためらわざるを得ない、ということですか。

  それでも「天上の父」(神)と「地上の父」(人間)は類比的に捉えられて、人々を悩ますことになったのでした。たぶん。

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〔2010年8月11日記〕

記事「天の父と地の父(母と娘の会話)――『若草物語』のばあい Your Heavenly Father and Your Earthly Father in _Little Women_: A Conversation Between a Mother and a Daughter」、そしてそれに並ぶ「天の父と地の父――『緋文字』のばあい(1) (母と娘の会話) Your Heavenly Father and Your Earthly Father in _The Scarlet Letter_: A Conversation Between a Mother and a Daughter」につづいていきます。


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父なる神 God the Father [Daddy-Long-Legs]

〔記事「『あしながおじさん』における神 (第3のノート)  [Daddy-Long-Legs]」と「天にまします我らの父――主の祈り Our Father in Heaven: Lord's Prayer [φ(..)メモメモ]」につづくもの〕 

いまさら言うまでもありませんが、孤児のジェルーシャ・アボット(『あしながおじさん』の話です)は親に――母親にか父親にか、両親にか――遺棄され、親を失なった存在です。

  ジュディーはキリスト教の世界観に、とくにアメリカ的ピューリタン的予定論的宿命論的世界観に反感を持っているように見えますけれど、反感も含めて、キリスト教への言及が作品に、たとえば社会主義への言及との対比的意味という以上に、散りばめられているのも事実だと思います。

  「天の父」へのタイポロジカルな聖書の言及は、たぶん旧約聖書の詩篇にある、つぎの文章でしょうか。――

旧約聖書「詩篇」27章10節―― 「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう」(口語訳聖書) 
Psalms 27.10: "When my father and my mother forsake me, Then the Lord will take me up."

  "take up" というイディオムは、いろんな意味があるのですけれど、「保護する」「庇護する」、あるいは、もともとの語感に近い「拾い上げる」みたいな感じでしょうか。

  ともあれ、地上的な親(父)に棄てられても天上的な父(主)が救ってくれる、というような type は旧約聖書からあって、それが、新約聖書の子なる神イエスの登場&三位一体によって、人と神の関係に複雑な問題を持ち込みながらも、継続するのかなーと。

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頭を痛めつつメモurls――

JIBC of Tacoma - 6/20/’10“To Meet Heavenly Father”「父なる神様と出会う為に」創世記11章1~9節 <http://jibcoftacoma.com/modules/d3blog/details.php?bid=68>

アカペラ動画「天のお父様の愛」 My Heavenly Father Loves Me @YouTube <http://fukuotoko.blog53.fc2.com/blog-entry-974.html>

8月11日記――
さらに「天の父と地の父(母と娘の会話)――『若草物語』のばあい Your Heavenly Father and Your Earthly Father in _Little Women_: A Conversation Between a Mother and a Daughter、そしてそれに並ぶ「天の父と地の父――『緋文字』のばあい(1) (母と娘の会話) Your Heavenly Father and Your Earthly Father in _The Scarlet Letter_: A Conversation Between a Mother and a Daughter」につづいていきます。

 

 

 


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天の父と地の父(母と娘の会話)――『若草物語』のばあい Your Heavenly Father and Your Earthly Father in _Little Women_: A Conversation Between a Mother and a Daughter [Little Women]

〔記事「『あしながおじさん』における神 (第3のノート) 」と「天にまします我らの父――主の祈り Our Father in Heaven: Lord's Prayer」につづく記事「父なる神 God the Father」につづくものです〕  

『若草物語 Little Women』第一部第8章「ジョーはアポリオンに会う Jo Meets Apollyon」における母と娘の会話〔章の内容を書き始めたのですけど、ややこしくなるので別の記事にまわします〕の一部――

     "No, dear, but speaking of father reminded me how much I miss him, how much I owe him, and how faithfully I should watch and work to keep his little daughters safe and good for him."
     "Yet you told him to go, mother, and didn't cry when he went, and never complain now, or seem as if you needed any help," said Jo, wondering.
     "I gave my best to the country I love, and kept my tears till he was gone.  Why should I complain, when we both have merely done our duty and will surely be the happier for it in the end?  If I don't seem to need help, it is because I have a better friend, even than father, to comfort and sustain me.  My child, the troubles and temptations of your life are beginning and may be many, but you can overcome and outlive them all if you learn to feel the strength and tenderness of your Heavenly Father as you do that of your earthly one.  The more you love and trust Him, the nearer you will feel to Him, and the less you will depend on human power and wisdom.  His love and care never tire or change, can never be taken from you, but may become the source of lifelong peace, happiness, and strength.  Believe this heartily, and go to God with all your little cares, and hopes, and sins, and sorrows, as freely and confidingly as you come to your mother."
     Jo's only answer was to hold her mother close, and in the silence which followed the sincerest prayer she had ever prayed left her heart without words.  For in that sad yet happy hour, she had learned not only the bitterness of remorse and despair, but the sweetness of self-denial and self-control, and led by her mother's hand, she had drawn nearer to the Friend who always welcomes every child with a love stronger than that of any father, tenderer than that of any mother.  (Norton Critical Edition, 70) 
(「いいえ。でもお父さまのことを話していたら、お父さまのいないさびしさ、お力の大きさをあらためて思い、お父さまの大切な娘たちが無事にちゃんと育っていくようにしじゅう心をくばり努めなければならないとしみじみ思っただけなの。」
 「でも、お母さん、お母さんは自分から従軍を勧め、出発のときも泣いたりしなかったし、いまだって愚痴ったりしないし、助けなどいらないように見える。」
 「わたしは、愛する祖国にいちばん役に立つものを捧げ、お父さまが行っておしまいになるまで涙をこらえていたのよ。わたしたちは義務を果たしてそのおかげで最後には前以上に幸福になれるのに、どうして愚痴などこぼせましょう。もしも、わたしが助けを必要としていないように見えるなら、それはお父さまにも優る、慰めと力を与えてくださる良き友を持っているからよ。ねえ、ジョー、あなたの人生の悩みも試練も、ようやく始まったばかりでたくさんに増えるかもしれない。けれども、あなたの<天上の父>のお力と慈しみを感じ取ることを知りさえしたならば――そう、地上の父に対すると同じように――あなたはすべてのものに打ち勝ち、生き抜くことができるのです。<彼>〔天上の父〕を愛し、信じることが深いほど、<彼>〔天上の父〕のおそば近くにあることを感じ、人の力や知恵などに頼ること、少なくなるもの。、<彼>〔天上の父〕の愛と優しさは倦むことも変わることもなく、奪われることもなく、生涯にわたる平和と幸福と力の源となるでしょう。このことを心から信じて、あなたの小さな心配や、望み、悲しみ、罪も、お母さんのところへ持ってくるのと同じように、<神さま>の前に、気楽に、何もかもさらけだすようになさい。」
 ジョーの返答は、ぎゅっと母親を抱きしめることだった。それに続いた沈黙のなかでジョーのこれまでで最も真心のこもった祈りが、言葉を伴わずにその心から出ていった。というのは、この悲しいけれども幸せな時間に、彼女は悔恨と絶望の苦さを知っただけでなく、自制と克己の甘さも知ったのだ。そして、母の手に導かれて、この世のどの父よりも強く、どの母よりも優しい愛で、すべての子に手をさしのべてくれる<友>のそばへ引き寄せられたのだ。)

  この、女性作家オルコットによる、母と娘の会話には、おのずと、「地上の父」だけでなくて「地上の母」も参入するのですが、控えめで相対的な言及にとどまります。相対的、というのは、天上に対し地上、というのと、父の強さに対して母の優しさというのと、二重です。

  ところで、興味深いのは、最後の大文字の<友 Friend>です。「この世のどの父よりも強く、どの母よりも優しい愛で、すべての子に手をさしのべてくれる<友>」は、話の流れからすると「天上の父」ということになりそうです。しかし・・・・・・神様を友とか呼んじゃっていいのかしら? なんか唐突で意外な感じがしたのでした。

  もっとも、この「友」は、お母さんのコトバのなかでは、原文小文字で前に出ていました――「もしも、わたしが助けを必要としていないように見えるなら、それはお父さまにも優る、慰めと力を与えてくださる良き友を持っているからよ。 If I don't seem to need help, it is because I have a better friend, even than father, to comfort and sustain me.」 

  このテクスト、実は大文字・小文字で異同があって、プロジェクト・グーテンベルクが採用しているテクストはこの箇所の father は Father だったりします。でも friend は小文字のままみたい(上に引いたノートン版は1868年初版のテクストを採用)。

  で、まったく自信があるわけでもなんでもないのですけれど、この "comfort" つまり慰めを与える存在である friend (大文字のFriend にしてもいいのだけれど)というのは、父なる神というよりは、子なるイエスが告別の辞のなかで「慰め手 Comforter」、「真理の霊」と呼んだ、パラクレート Paraclete、つまり聖霊のことを言っている可能性はないのだろうか、と。(エマソンとの交流を考えれば、ある種のキリスト教神秘主義にオルコットが自覚的・無自覚的に親しんだ可能性はあるのではないかと思うのです。)

  ともあれ、この「友」は性別(性差 gender)が特定されないままに終わっています。あたかも「父なる神」のほうのあからさまな「彼」「彼」の連発的 reference とは対照的に、ひそやかに呼び込まれた存在であるかのごとく。

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えーと、パラクレートについては『カリフォルニア時間』のほうの2009年春の記事、

March 9-10 『自然の夜の側面』における神殿の居住者をめぐって On "Dweller in the Temple" in Catherine Crowe, The Night Side of Nature――擬似科学をめぐって(28)  On Pseudosciences (28) [擬似科学周辺]」など参照。


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天の父と地の父――『緋文字』のばあい(1) (母と娘の会話) Your Heavenly Father and Your Earthly Father in _The Scarlet Letter_: A Conversation Between a Mother and a Daughter [Marginalia 余白に]

〔記事「『あしながおじさん』における神 (第3のノート) 」と「天にまします我らの父――主の祈り Our Father in Heaven: Lord's Prayer」につづく記事「父なる神 God the Father」につづく記事「天の父と地の父(母と娘の会話)――『若草物語』のばあい Your Heavenly Father and Your Earthly Father in _Little Women_: A Conversation Between a Mother and a Daughterに並ぶものです〕  

ナサニエル・ホーソーンの代表作『緋文字』 (1850) は17世紀中ごろのアメリカ植民地を舞台にした歴史ロマンスで、独身の牧師と姦通を犯して女の子パールを産んだ若い人妻のへスター・プリンが赤ん坊を抱いてさらし台に立たされているところから物語は始まり、7年間ぐらいのスパンを全24章でまったりねちねちと描いて、完全な善玉・悪玉、100パーセント好意的に感情移入できるヒーローもヒロインもいない、暗く曖昧な作品となっています。

Gordon,FrederickC.(FrederickA.Stokes,1893)70.JPG
Frederick C. Gordon, illust.  The Scarlet Letter (New York: Frederick A. Stokes,1893), p. 70――赤ん坊のパールを抱き、胸にAdultery (姦通)の頭文字の A の刺繍をつけてさらし台に立つへスター


   第6章「パール」――

パールをじっと見ていると、へスター・プリンは手にしている針仕事を思わず膝に落として、隠しておきたいと思う苦しみが言葉とも呻きともつかぬ声となって、泣きさけぶことがよくあった。「おお、<天にまします父>よ、もしいまも<あなた>がわたしの<>でいてくださるのならお答えください。わたしがこの世に生み落としたこの子供は何者でございましょう。」・・・・・・
(Gazing at Pearl, Hester Prynne often dropped her work upon her knees, and cried out with an agony which she would fain have hidden, but which made utterance for itself betwixt speech and a groan—"O Father in Heaven—if Thou art still my Father—what is this being which I have brought into the world?"  And Pearl, overhearing the ejaculation, or aware through some more subtile channel, of those throbs of anguish, would turn her vivid and beautiful little face upon her mother, smile with sprite-like intelligence, and resume her play.)

  これがこの章の9段落目です。ちょっとあとの13段落目から章の最後の26段落目のひとつ前の25段落までの母と娘の会話(ねちっこい語り手のコメントの段落は日本語訳からは落とします)。――

  「おまえ。おまえはいったいなんなの」と母親は叫んだ。
  「あたしお母さんのちいちゃなパールよ!」と子供は答えた。
  ・・・・・・
  「おまえはわたしの子供なの、ほんとうに?」とへスターは尋ねた。
  ・・・・・・
  「ええ、あたしちいちゃなパールよ!」と、おどけた身ぶりをやめずに子供はくりかえした。
  「おまえはわたしの子供じゃない! おまえはわたしのパールじゃない」と母親はなかば遊ぶように言った。へスターは、深い苦悩の底にいるときにも戯れの衝動が起こることがあった。「教えてよ、おまえはなんなの? 誰がここへつれてきたの?」
  「お母さんが教えてよ!」と子供は真剣に、へスターのそばに寄ってきて、膝にからだをすりつけた。「教えてちょうだい!」
  「おまえの<天のお父さま>よ!」とへスター・プリンは答えた。
  ・・・・・・
  「<> 〔天のお父さま〕じゃない!」とパールは強い調子で叫んだ。「あたしには<天のお父さま>なんかいない!」
  「おだまり、パール、おだまり! そんなことを言ってはいけません!」と母親は呻き声を抑えながら言った。「<> 〔天のお父さま〕が皆を世界に送ってくださったのです。わたしだって、おまえのお母さんだってです。だから、おまえならなおさらだわ! そうでないというなら、おまえのような、ヘンな、妖精のような子は、どこから来たのです?」
  「教えて、教えて!」とパールはくりかえしたが、もはや本気ではなくて、笑いながら床のうえを跳ねていた。「お母さんなら知っているはず!」
    ("Child, what art thou?" cried the mother.
     "Oh, I am your little Pearl!" answered the child.
     But while she said it, Pearl laughed, and began to dance up and down with the humoursome gesticulation of a little imp, whose next freak might be to fly up the chimney.
     "Art thou my child, in very truth?" asked Hester.
     Nor did she put the question altogether idly, but, for the moment, with a portion of genuine earnestness; for, such was Pearl's wonderful intelligence, that her mother half doubted whether she were not acquainted with the secret spell of her existence, and might not now reveal herself.
     "Yes; I am little Pearl!" repeated the child, continuing her antics.
     "Thou art not my child!  Thou art no Pearl of mine!" said the mother half playfully; for it was often the case that a sportive impulse came over her in the midst of her deepest suffering.  "Tell me, then, what thou art, and who sent thee hither?"
     "Tell me, mother!" said the child, seriously, coming up to Hester, and pressing herself close to her knees.  "Do thou tell me!"
     "Thy Heavenly Father sent thee!" answered Hester Prynne.
     But she said it with a hesitation that did not escape the acuteness of the child.  Whether moved only by her ordinary freakishness, or because an evil spirit prompted her, she put up her small forefinger and touched the scarlet letter.
     "He did not send me!" cried she, positively.  "I have no
Heavenly Father!"
     "Hush, Pearl, hush! Thou must not talk so!" answered the mother, suppressing a groan.  "He sent us all into the world.  He sent even me, thy mother.  Then, much more thee!  Or, if not, thou strange and elfish child, whence didst thou come?"
     "Tell me! Tell me!" repeated Pearl, no longer seriously, but laughing and capering about the floor.  "It is thou that must tell me!"
     But Hester could not resolve the query, being herself in a dismal labyrinth of doubt. She remembered—betwixt a smile and a shudder—the talk of the neighbouring townspeople, who, seeking vainly elsewhere for the child's paternity, and observing some of her odd attributes, had given out that poor little Pearl was a demon offspring: such as, ever since old Catholic times, had occasionally been seen on earth, through the agency of their mother's sin, and to promote some foul and wicked purpose.  Luther, according to the scandal of his monkish enemies, was a brat of that hellish breed; nor was Pearl the only child to whom this inauspicious origin was assigned among the New England Puritans.)

 

Gordon,FrederickC.(FrederickA.Stokes,1893)127 - コピー.JPG 
Frederick C. Gordon, illust.  The Scarlet Letter (p. 127)――母親の胸に付けられた A をめがけて花の矢を投げ続ける娘のパール・・・・・・えっと、このときに娘のパールは3歳なんで、ちょっと画は大きすぎるように思いますが、ともあれ、このときに上記の母と娘の会話は起こります。

  え? 地の父が出てこない? そーなんです。記憶のなかには対比的にあったのですが・・・・・・。ま、隠蔽されている、ということで・・・・・・。と逃げようと思うと、実は最後の段落で、ホーソーンは意外な「父」に言及します(原文は上の英語の最後のパラグラフ)。――

けれどもヘスターは疑惑の陰鬱な迷宮に入り込んで、質問に答えることができなかった。彼女は近隣のひとびとの話していたことを――微笑とも身震いともつかない状態で――思い起こした。子供の父親がどこにも見つからないことと、この子供の奇妙な性質をいくらか見聞きしていたので、ひとびとは、かわいそうな小さなパールは悪魔の子 (demon offspring) だと言いふらしていた。昔のカトリックの時代から、母親の罪のせいでときおりそんな子供が生まれ、なにか汚れた邪悪な計画を促進するために地上に送られてくるといわれる。ルターも反対派の修道僧の悪口によれば、地獄の申し子であり、ニューイングランドのピューリタンたちのあいだではパールもこの不吉な起源に帰せられる唯一の子供というわけではなかったのである。

  ここでの想像力は天上と地上、というにとどまらず、地下へ、地獄へと降下して、神と悪魔の対立の緊張状態のなかに人の世たる地上がイメジされているのでした。

  午後4時追記――
  えーと、ホーソーンのほうがルイーザ・メイ・オールコットよりもよかれあしかれ観念的で、地上的なできごとの背後に神と悪魔(の構図)を透かし見る、だから(はしょって言うと)ホーソーンはロマンス的で、オルコットはノヴェル的なリアリズムへさしかかっている、ということを言いたいわけではないです(言ってもいいけど)。オルコットをこのごろ読んでいるのですけれど、いっぽうで父親と親和的だったアメリカ超絶主義の影響とともに、やっぱり父の代で親交があったホーソーンの影響を、作家的にむしろ前者より多分に、受けている感じがします。それは具体的には、フロイト以前にフロイト的といわれるホーソーンの psychological な人間理解です。話が長くなりそうなのでやめますけれど、たとえば、悪魔と契約するとか悪魔や悪霊が憑依するとかいう「物語」が、人間の心(魂)のうちなる悪魔(ヒユだけど)みたいなところに変化していく、結果、ゴシック的超自然が心理化・人間内在化するというような流れ。

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Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter 初版 (Boston: Ticknor, Reed, and Fields, 1850) のE-text @ Internet Archive <http://www.archive.org/stream/letterromscarlet00hawtrich#page/n5/mode/2up>

The Scarlet Letter: A Romance by Nathaniel Hawthorne.   Vignette Edition, with One Hundred New Illustrations by Frederick C. Gordon.  New York: Frederick A. Stokes, 1893.  <http://www.archive.org/stream/romancescarlet00hawtrich#page/n5/mode/2up>

E-text at Project Gutenberg <http://www.gutenberg.org/cache/epub/33/pg33.html>


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最新記事一覧(このごろの記事一覧)などの文字数を長くする (So-net ブログ) [φ(..)メモメモ]

昨日(2010年8月11日)から、このブログとその前のブログ『カリフォルニア時間』の「最新記事一覧」の表示文字数を増やしてみた。デフォルトだと一行におさまるように設定されていて、個人的には短すぎるのでした(記事の差がつかないこともあったりして(爆)。

  管理ページ⇒デザインレイアウト⇒最新記事一覧⇒(右上の)コンテンツHTML編集⇒〔上級者向けと表示が出る〕7行目にあるのが <li><a href="<% article.page_url %>"><% article.subject | shorten(17) | html %></a></li>

   この17というのは17文字なんすかねー。これをとりあえず100に増やしました。

  結果(例)――

(前)
WS000579.JPG

(後)
WS000580.JPG

WS000581.JPG


  カリフォルニア時間のほうも、長いタイトルの全貌がアラワになりました(w)。――

WS000578.JPG

  ま、タイトルは短いほうがよいという考えもあるかもしれませんが、自分的にはとっても満足なのでした♪

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ねんのためブログの「使い方マニュアル」ページ―― <http://blog-help.blog.so-net.ne.jp/>

そのページで「最新記事一覧」を検索する―― <http://blog-help.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E6%9C%80%E6%96%B0%E8%A8%98%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7>  なぜか、「CSSセレクタ(タグ)一覧」が出てきます(勉強せねばわからず)。ところで、ここで気づいたのですけど、レイアウトのページのカスタムペインは「最新記事一覧」という題だけれど、ブログ上では「このごろの記事一覧」となっていてズレがあるのですね。ちなみに最新にしてもこのごろにしても『カリフォルニア時間』のほう、1年以上ほっぽっています。どうしよう。写真も、ソネットのPhoto なんたら自体がなくなったんで、そこからのブログ・サービスも消えちゃったし・・・・・・。カリフォルニアの空の写真はだいたい残っているけれど、サンフランシスコ動物園や大古本市の記事は悲惨。

PS.  すぐあとで見直してわかったのですけれど、このブログのほうは「最新記事一覧」となっていました。「このごろの記事一覧」は前のブログのほうでした。この1、2年でカスタムペインの名称が変わったからか、時間がたつとタイトルが変わるのか――たぶん前者でしょうね。後者はこわいゎ。


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オープン・ライブラリー Open Library [φ(..)メモメモ]

『緋文字』の英語原文テクストを――本を見ながら打ち込むのがめんどくさかったので――探しているときに、つぎのようなページに出くわしました。――

The scarlet letter (Open Library) <http://openlibrary.org/works/OL455305W/The_scarlet_letter>

  はじめに "About the Book" として数行の要旨があり、その下に "SUBJECTS" として該当キーワード(リンク)が列挙されます。それから "PEOPLE"(人物) と "PLACES"(舞台) と "TIMES"(時代)。全部複数形なのは共通項目名称だからなのでしょう。

WS000582.JPG
<http://openlibrary.org/works/OL455305W/The_scarlet_letter>

  個々のテクストの見出しとしては、出版年、出版社、そしてタイトルのあとに "in English" とか "in Spanish" とか "- [1st ed.]" とか "- Vignette ed. with ... ill. / by Frederick C. Gordon. " など、記されていたりいなかったりします。

WS000583.JPG
<http://openlibrary.org/books/OL7253386M/scarlet_letter>

  フォーマットとしては、つぎのように並んでいます。――

 

  ちょうどカリフォルニアに行った2008年ぐらいから、Internet Archive を愛用するようになったモーリちゃんの父でしたが、実際に開けてみないと、何年の版なのかわからないことがしばしばでしたので、この記述、とくに出版年と出版社の記述、が正しいのならば、たいへん便利です。

  ちなみに Internet Archive で 『緋文字』をテクスト検索すると、60しかヒットしませんし、オーディオなど他のメディアを入れても89しかヒットしません――

"Internet Archive Search: The Scarlet Letter" <http://www.archive.org/search.php?query=The%20Scarlet%20Letter>

  Frederick C. Gordon の挿絵の入った上の本のフォーマットは、以下のようです。――

Read Online (~372 pg)
PDF (31.1 M)
EPUB (~372 pg)
Kindle (~372 pg)
Daisy (~372 pg)
Full Text (499.0 K)
DjVu (14.8 M)

  ちょっと調べてみたら、そもそもこの Open Library の企画は Internet Archive から派生したもののようで。2006年に始動し、2010年5月にページがデザインし直されたみたい。HPトップ――

"Welcome to Open Library! (Open Library)" <http://openlibrary.org/>

  看板には "Ever wanted to play librarian? / It's OK.  We all do." (図書館司書をしてみたいと思ったことはないですか? だいじょうぶ。わたしたち皆が司書です。) そして "If you love books why not help build a library?" (愛書家ならば図書館をつくるのを助けてください) と。

  "About Us" の最後には "Open Library is a project of the non-profit Internet Archive, and has been funded in part by a grant from the California State Library and the Kahle/Austin Foundation." と書かれています。

  もうちょっと探索してから書くべき記事だったかもしれませんが・・・・・・メモメモ。

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Open Library <http://openlibrary.org/>

"Open Library - Wikipedia" <http://en.wikipedia.org/wiki/Open_Library>

"Internet Archive Search: Open Library" at Internet Archive <http://www.archive.org/search.php?query=Open+Library>

 


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大人の三日間の文法問題 (1) I've Been Grown Up for Three Days (1) [Just Patty]

『あしながおじさん』は作者のジーン・ウェブスターには子供向けという意識はミジンもなかったし(と断言して不安になりましたが、慈善運動のために自ら舞台脚本を書いてアメリカの多くの家庭に訴えたときにもそうだったんだと思う)、『若草物語』については、作者のオルコットが、出版社から "girls" 向けの小説を書いてほしいという要望を(最初父親のブロンソン・オルコット経由で)受けたのは有名な話だけれども、なるほど第一部のはじめのほうはいかにも懇切丁寧な語り手を演じているけれど、話が進むにつれて、どうにも子供が100パー理解できるようなスタイルでもプロットでもなくなっていくような気がします。それと girl の範疇がどこまでかという問題があります。

  日本で「児童文学」と称されるものは、たぶん特に昔のものには歴史的な経緯からいろいろな作品が混在していて、典型的にはクーパーの『モヒカン族の最後の者』とかメルヴィルの『白鯨』といった大人の文学を子供向けにツヅメタ (retold) ものとかは、むかし「世界文学全集」とか「古典」とかがよかれあしかれ理念として共有されていたときに、大人の教養の入口として設定されていたのかもしれません。『あしながおじさん』とか『若草物語』はたぶんちょっと違っていて、主人公が「大人」になる前の、あるいは大人になりかけの時期を扱っているので、児童文学へ入れちゃうみたいな。

  おそらく children's literature というふうに "child(ren)" を念頭に置くならば、ティーンズの前の、つまり thirteen, fourteen, . . . nineteen と "teen" が付く年齢の前の、12 (twelve) 以下が主たる対象ということになるのでしょうけど。

  でも、日本で半ば死語となったかもしれない「青春小説」ですよね、どちらも。子供から大人にめざめていく「思春期小説」と重なっているけれど。いずれにしても「子供」が読むものではないような(偏見かw)。

  と、枕がだら~んと伸びました。

  ジーン・ウェブスターの『おちゃめなパティー Just Patty』 (1911) は、作者がヴァッサー女子大学卒業 (1901) 後に初めて出版した『パティーが大学生だったころ When Patty Went to College』 (1903) の主人公パティーとその親友のプリシラが大学入学前に通っていたセント=アーシュラ学院(高校というより4年制の finishing school)時代をいわばフラッシュバック的に描く長篇小説です。長篇小説だけれども、大学在学時に短篇のかたちで発表しつづけた作品をまとめた『おちゃめなパティー』と同様に、ゆるやかにつながった短篇小説集という趣きもあり、各章はエピソード的に完結しつつ(ユーモア小説的にオチを出しながら)展開してゆくという構成です。

  その4つ目の話が「終わりから三番目の男のひと The Third Man from the End」です。パティーは、親戚の結婚式のために汽車に乗るのだけれど、同じデザインのスーツケースを持った男と、互いのスーツケースを取り違えて下車してしまいます。結婚式の衣装のかわりに男物の服が入っていたのでした。

  「で、結婚式に何を着たの?」
  「ルイズの衣装よ。ちっとも変じゃなかったわ。わたしのほかの花嫁侍女と釣りあわないんですもの。あたしは付添女だったからよ。だから、どのみち別なのを着なけりゃならなかったのよ。あたし三日間で大人になっちゃったの。ロード先生が、あたしが髪をアップにして、男のひとと話をしてるところを見てくださればよかったと思うわよ!」 (遠藤壽子訳『おちゃめなパッティ』[『女学生パッティ』1956; rpt. ブッキング, 2004] 105)

  「それで、ルイーズの結婚式には、あなたは、なにを着たの?」
  「ルイーズのドレスよ。わたしのドレスは、ほかの付きそい役のドレスとつりあわなかったけど、そんなことは、すこしもかまわなかったわ。わたしは、付きそい役のリーダーだったから、どのみち、ちがうドレスを着ることになっていたんですもの。わたしは、三日のあいだ、おとなだったのよ――わたしが髪を頭のてっぺんにゆいあげて、男の人たちと話してるところを、ロード先生に見せたかったと思うわ!」 (榎林哲訳『おちゃめなパティー』 [講談社, 1981] 89)

  原文――"And what did you wear at the wedding?"
     "Louise's clothes.  It didn't matter a bit, my not matching the other bridesmaids, because I was maid of honor, and ought to dress differently anyway.  I've been grown up for three days―and I just wish Miss Lord could have seen me with my hair on the top of my head talking to men!"

  いろいろ問題を考えながらつづく~♪ あ、英文法的には「現在完了」問題でーす。

///////////////////////

(これまでの関連記事――なかば私的便宜に)――

レイディー・ジェイン・グレイ・スクール Lady Jane Grey School」 (2009.9.1)

フィニッシング・スクール Finishing School」 (2009.9.20)

100年前のセーラー服 (1) Sailor Suits of a Hundred Years Ago」 (2009.9.23)

おちゃめなパッティ Patty」 (2009.9.29)

『あしながおじさん――4幕の喜劇』 Daddy Long-Legs: A Comedy in Four Acts」 (2010.1.18)

 

ジーン・ウェブスターの著作 Jean Webster's Works」 (2009.9.14)

 


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イタコのイタロウ Itaro of Itako 潮来の伊太郎 [歌・詩 ]

モーリちゃんとモーリちゃんの母がモーリちゃんの母の実家にしばらく帰っていて、モーリちゃんの父はモーリちゃんの祖父祖母と一緒にしばらく夕食を共にしていたのだけれど、週末の夜につづけてNHK(ナツメロ)とフジテレビ(こっちはモノマネ)で、「潮来の伊太郎」を聞いたので、長年の疑問をモーリちゃんの父はモーリちゃんの祖父にぶつけてみた。

  「ちょっと見なれば」というのは、いわゆる已然仮定というやつなんすかね? 〔Cf. 「已然形」Wikipedia〕、ちょっと見「ならば」、じゃなくて、「なれば」?

  ちなみに、「已然仮定」という用語を「未然仮定」(えーと、潮来でいうなら「ちょっと見ならば」だったら未然形の未然仮定)という用語とともに学んだのは比較的最近で、美人のホマレたかい同僚のKKが就職したときに、彼女の出身校の校歌だかなんだかで、聖書の「求めよさらば」、「求めよされば」という対があって、それぞれを未然・已然という仮定として習ったとかなんとかいうふうに教えられたのだった。

  モーリちゃんの祖父(モーリちゃんの父の父)からは回答を得られず、「さぁー? つづきは?」と、歌詞の先を再三訊かれ、知らんがな、と酔ったアタマで考えながら、いっぽう思いはゲゲゲの鬼太郎とか、恐山のイタコ(中学生のころイタローはイタコだったのか、とマジに考えた時期があった)とか、Oh!モーレツ♪ア太郎とか、あらぬ方向へチャネリングしていたのでした。

  「潮来の伊太郎」 (1960) 作詞・佐伯孝夫 作曲・吉田正 goo音楽 <http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND13850/index.html>

  ま、続く歌詞を検討しても、答えはでてきませんな。それでいいのさ~♪ 〔2010.8.26深更記――と書いて平然としていましたが、リス姉さんとの応答(コメント)によって、どうやら自分的には歌詞の物語の中に問題を回収してしまいました、なぜか〕

  歌詞検討メモ

1.  「この歌の替え歌を大学入試の門に掲げ、母校の受験生を励ました安保闘争真っ只中の先輩たち。♪飯田校[高?]の飯太郎ちょっと見なれば、鈍才そうな田舎猿・・・・・・」 <http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-itakogasa.html>

2.  「♪イタ公のスタローンちょっと見なれば~」 『コンスタンチン君』<http://bhn.jpn.org/doctor/konstantin.html>

3. 以下  省略

 

  佐伯孝夫と吉田正コンビの作詞・作曲で橋幸夫が歌というと、翌1961年の吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」、1962年の「江梨子」(「野菊」が出てくるところが水郷つながりか?)、1963年の「舞妓はん」、1964年の「恋をするなら」と続いていくのだけれど、・・・・・・うーむ、基本バラバラですな。

 


タグ:イタコ
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イタコのセイラ Sarah Whitman as Spirit Medium [作家の肖像]

セイラ・ホイットマン Sarah Helen Power Whitman (1803-78) は、ポー Edgar Allan Poe (1809-49) の生涯をいろどる女性のひとりで、ポーより少し年長の女性詩人でした。ポーは死の前年の1848年にプロヴィデンスのスワン=ポイント墓地でホイットマンに求婚し、婚約を交わすまでになります。しかし1848年12月23日、ポーの飲酒に不安を感じたホイットマンが婚約を解消し、ロマンスは終焉します。ポーの姿を二度と見ることはなかったけれど、ホイットマンはポーの死後もポーに誠意を示して、『エドガー・ポーと批評家たち Edgar Allan Poe and His Critics』(1860)でポーの天才を擁護し、ポーの人と芸術に対する高い評価を訴えました(これは悪名高いグリズウォルドらによるポーの人格攻撃とは対照的なものでした)。

  そのセイラ・ホイットマンは、霊媒となって、死んだポーとの霊的交信を試みたとされています。

  モーリちゃんの父の秘密のコレクションから一枚――そしてたぶん話はつづくきます――

SarahWhitman,Medium-modified1600.jpg
Sarah Whitman, Spirit Medium 〔クリックで拡大〕


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イタコのイタローホイ Itaro of Itako, Hoy 潮来の伊太郎補遺 [歌・詩 ]

(1)  「潮来笠」と呼ばれる菅笠(スゲガサ) があったわけでも、ある(歌唱ヒット後も)わけでも、ないようですが、水郷潮来地方の菅笠として、「あやめ笠」の名で継承されているものがあります。――

・「あやめ笠[発見!!いばらき] <http://www.pref.ibaraki.jp/discover/craft/east/01.html>――

元来は潮来の水郷地帯の農作業には欠かせない日除け、雨よけのすげ笠であった。現在は、幸せを招く郷土の民芸品として作られている。

かつては農作業の必需品

あやめ笠利根川下流のデルタ地帯・潮来地方は、水郷地帯としても知られる早場米の生産地である。い草で編んだすげ笠は、水郷地帯での農作業には欠かせない装身具で、日除け、雨よけ、さらには悪事災難を避け身を守る笠として使用されてきた。現在は帽子の普及で笠をかぶる人はいなくなったが、幸せを招く民芸品として作られている。

「潮来笠」で一躍有名に

潮来(いたこ)の笠は、昭和30年代に歌手の橋幸夫が歌った「潮来笠」で一躍有名になった。「あやめ笠」の名は、あやめが潮来の野の花であり、笠の形もあやめに似ていることに由来する。100万株ともいわれるあやめが咲き競う風景は、「潮来出島(いたこでじま)の真菰(まこも)の中に、あやめ咲くとはしおらしや」と約300年前の民謡にも歌われている。「あやめ笠」の復活は、すげ笠姿の農民があやめの野に溶け込む風景を思い起こさせてくれる。い草を切断し、手作業で一つの束にする。中心に芯を入れ、「ぼっち」という突起を作る。い草を編み込み、竹ひごを入れながら「ふち編み」をする。

製造工程

  • 裁断→
  • ぼっち作り→
  • 編み込み→
  • ふち編み→
  • 仕上げ」 〔茶色部分コピペしそびれてました―22:20記〕

 

・「あやめ笠:茨城県潮来市 水郷潮来観光ガイド」<http://www.city.itako.lg.jp/kanko/tokusanhin/tokusan01/index.html>――

 水郷情緒豊かなサッパ舟を操る娘船頭の風情というと、紺ガスリと菅笠(あやめ笠)に象徴されています。い草を編んだあやめ笠は、早場米地帯として知られる当水郷地方では、古くから農作業には欠かせない必需品で、日よけや雨よけの農具として、更には悪事災難を避け常に身をまもる笠としてこの水郷地方では大切にされてきました。
   以前は、婚礼の際に花嫁を迎えるときに花嫁の頭にこのあやめ笠をかぶせて災難をよけ、生涯夫婦仲良く幸せにとの願いを込めた行事もあります。
  しかし、近年になって帽子等が急速に普及したことに伴い、あやめ笠の需要も極端に少なくなり、あやめ笠を編む人も少なくなってきていました。
  このような中、この伝統ある民具である『あやめ笠』を後世に伝承をして行くために、潮来市シルバー人材センターのメンバーが中心となり、このあやめ笠を伝承していくための組織を構成し、毎年行われている『あやめまつり大会』においてあやめ笠の物産販売を行っており、平成8年にはこのような活動が評価され「茨城県郷土工芸品」の指定も受けております。 」

(2) 映画(1) 橋幸夫が主題歌を歌いながらも端役で出る映画『潮来笠』の封切りは1961年大映 <http://movie.goo.ne.jp/movies/p20107/story.html>。いっぽう東映では、1961年に『あやめ笠――喧嘩街道』 <http://movie.goo.ne.jp/movies/p23052/comment.html>、1962年に続篇『男度胸のあやめ笠』 <http://movie.goo.ne.jp/movies/p20741/comment.html>が出ています。東映対大映映画という菅笠抗争があったのかしら。

(3)  潮来に建っている伊太郎像は菅笠をかぶった伊太郎が描かれています。モーリちゃんの父に浮かんだ笠のイメジも最初は男(渡り鳥)のものでしかありませんでした。
itakogasa-HashiYukio-utakara.jpg
「菅笠」というと、現菅総理がむかしお遍路さんになったときに被ったようなものも含まれます――たとえば、「菅笠・ひのき笠・網代笠・巡拝帽子」<http://www.eitikai.co.jp/sugekasa-boushi.htm>――。

(4)  ドラマと映画 (2)  伊藤左千夫の小説『野菊の墓』のドラマ・映画化――
1955年 映画『野菊の如き君なりき』 監督:木下惠介、出演:田中晋二、有田紀子、杉村春子、田村高廣、笠智衆
1959年 ドラマ『野菊の墓』 出演:中村萬之助、夏川静江、津村悠子、神山繁
1961年 ドラマ『野菊の如き君なりき』 出演:久保賢、宮裕子
このころ水郷ブームみたいのがあったのかしら。――花村菊枝の歌謡「潮来花嫁さん」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E6%9D%A5%E8%8A%B1%E5%AB%81%E3%81%95%E3%82%93> は1960年4月でした。

  個人的には、大学1年生の初夏に、友だちに誘われて、野郎だけで水郷に舟を浮かべて遊んだのが懐かしい思い出です。女船頭さんだったかどうかも覚えていませんが、待合の鄙(ひな)びた感じと、舟が特に狭い水路を進んでいくときの両岸から張り出した植物の緑の様子はおぼろげに思い起こされます。

  それ以前・・・・・・高校の英語の先生に、『野菊の墓』を読んで泣くようでなければ文学は語れないみたいなことを言われたような言われないような・・・・・・それで、中学生のときに友人から借りたまま読まずにいた本を読んで、無理に高校時代に泣いたような気もしますが、結局無理しなくても泣いたのかもしれません。若いころは屈折していました。

 


水郷潮来 嫁入り舟

  花嫁があやめ笠を被っているというのではないのですか。『野菊の墓』の記憶は文章でも映像でも(山口百恵でも松田聖子でも)記憶はなく。


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バーネットの『白いひと』 (1917) _The White People_ by Frances Hodgson Burnett [The White People]

モーリちゃんの父は男だったので、小学生のころに『狭き門』は読んでも『あしながおじさん』も『秘密の花園』も読まなかった。『若草物語』も『赤毛のアン』も読んだ記憶はない。『小公子』と『小公女』は、どっちがどっちかわからないくらいだけれど、小学校5,6年のころに、模型飛行機でセドリックというのがあって、その記憶と結びついているので、たぶん『小公子』は読んでいたのかもしれない。

  さて、モーリちゃんはいつのまにかもう小学校6年生になってしまったけれど、子供を育ててタメになることのひとつは、一生の読書の初期部分をやりなおせることですな。大人の目で読むとどうなるかというようなリクツっぽいはなしではなくて、単純に、読むという行為においてです。「子供は大人の父である」(ワーズワース)。であるなら大人は子供の子供なのだ。

  川端康成 (1899-1972) 訳の『白い人びと』は、弟子の野上彰 (1909-67) が編集委員のひとり(他は藤田圭雄と矢崎源九郎と金田一春彦)となっていたポプラ社版「世界の名著」全30巻の第9巻に、『小公子』と一緒に収められました(1972)(ちなみに第10巻は『小公女』で、やっぱり川端の訳だった)。いったい、著名な作家がどれくらいのエネルギーと負担で訳すのかはわからないけれど、川端康成という人はもっと以前から児童文学にかかわっていた人ではあります。ともあれ、野上彰個人はこのシリーズの中では、『若草物語』(第13巻)と『あしながおじさん』(第21巻)という、このブログで扱ってきたアメリカ文学作品2作を訳しています。

  この抄訳に影響を受けた人は多くて、2002年に完訳版として『白い人たち』(文芸社; 新装版, 2005)を上梓した砂川宏一も、その旨「訳者まえがき」に記しています。

  『白いひと』は、スコットランドの、文字通りにゴシック的な「城」(Muircarrie Castle)に、家長として育った少女イザベル (Ysobel) が、「白いひと White People」を幻視するエピソードと、同じスコットランドの作家ヘクター・マクネアン (Hector MacNairn) との交流を通して自分と世界についての理解を深めていく(というと月並みですが、「白いひと」というのは基本死者ですから、オカルト的なおもむきが漂っています)プロットからなる、中篇小説です。ちょっと唐突なところもあるしちょっと断章的な感じが否めなくもないけれど、奇跡についてとか、世界の法則についてとかは、『秘密の花園』の中にあって日本の児童文学者に嫌われる「魔法」的な部分につながっていて、神秘主義的な世界観が背後にあることが感じられます。けれどもそれを神秘「学」的に説くところは、よかれあしかれ、少なくて、また、恐怖感も稀薄で、結果、しみじみとする、ゴシック・ロマンスの変化形といった感じ(まったく個人的な感じ)。

  ただ、この種の作品はバーネットが大人向けに書いたというような分類をされることが多いけれども、『秘密の花園』だって大人向けに書いたわけです。読者の体験としては、たぶん大人の知恵で主人公の「心理」を分析してしまうよりも、そのまま(いわば子供のように)事実として読んでいって、マクネアンらによる説明を聞いたほうが神秘感は大きくなるでしょうね。いっぽう、語り手とマクネアンとの関係からするならば、まだ十代の少女が書いている設定(幼少時の回想から始まるけれど、ほとんど現在につながる)と思われますから、そこでも大人/子供の区分を崩しているのではないかしら。

  あー、だから「しみじみとする」などというコトバは大人の言い方であって、もうちょっと高揚する驚きの感覚とか、わけわかんないけど現実の背後にあるものの予感とか、そういうものを時間の中に生きる(ということは死なざるを得ない)人間のある種の憧憬とともに提示していて、そういうところは、ぜんぜん物語は違うけれど、ロバート・ネーサンの『ジェニーの肖像』と似た不思議な印象を読者に必ず刻むような気がする。

   ということで(どういうことかわかりませんが)、少しずつバーネットについても書いてみたいと思います。

WhitePeople-frontispiece-gaussed.jpg
Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917), frontispiece.  Illustrated by Elizabeth Shippen Green.

  右手前の女の子が6歳ごろのYsobel。となりの女の子がウィー・ブラウン・エルスペス (Wee Brown Elspeth)。背後の騎士がその父親の「ダーク・マルカム」 (Dark Malcolm of the Glen)。この父子の500年前の暗く悲しい物語は第9章(作品は全10章)になって語られます。

///////////////////////////////////////////

Gutenberg E-book of The White People <http://etext.lib.virginia.edu/etcbin/toccer-new2?id=BurWhit.sgm&images=images/modeng&data=/texts/english/modeng/parsed&tag=public&part=all>

『バーネット女史の部屋』 by らいおねる <http://www.geocities.co.jp/Berkeley/1400/>

Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917) etext @Internet Archive <http://www.archive.org/details/whitepeople00burnrich>

 

 


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バーネットの『白いひと』 の献辞 Dedication to _The White People_ by Frances Hodgson Burnett [The White People]

以前、ジーン・ウェブスターの初期作品のユーモアのある献辞 (dedication) について書いたことがありました(「『パティ、カレッジへ行く』の献辞 Jean Webster's _When Patty Went to College_, Dedicated to "234 MAIN AND THE GOOD TIMES WE HAVE HAD THERE"[When Patty])。そのひとつ前の「『おちゃめなパッティ大学へ行く』のエピグラフについて Epigraph to _When Patty Went to College_」で書いたように、作者の献辞はしばしば翻訳からはずされてしまうことがあるようです。大人向け、完訳・全訳・完全訳、などを謳(うた)っていてもです。

  砂川宏一訳の『白い人たち』(文芸社, 2002; 新装版 2005)は、本文の前に「訳者まえがき」 (3-5) が、後に同じ訳者による「解説 『白い人たち』について」 (173-194) が、そして、目次にはないけれど195 ページにはいわば謝辞のようなものが解説に付随するかたちで記されています。長い文章は熱のこもったもので、パーソナルな思いを記したところも含めて、基本共感するところ多く、それ自体に文句はないす。けれども、作品を大事にしているならば、どうして献辞をはしょっちゃうんだろう、という疑問は生じます。1ページ割けないというならば、せめて解説で言及することくらいはできるでしょうに。

  とりあえず少なくとも初版(これは訳者が、「一九一七年に出版された初版本、つまり、今から八十五年前に出版されて今日までずっと残っているものの一冊で、世界中をくまなく探したとしてもこれと同じものはもう一冊も残っていないかも知れないという大変に貴重な本」と「まえがき」で記しているもの)にはつぎのような献辞があります。――

WS000596.JPG
Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917) etext @Internet Archive <http://www.archive.org/stream/whitepeople00burnrich#page/n9/mode/2up>

  ライオネル (Lionel) というのは、前の記事に記した『バーネット女史の部屋』の管理人の名前がらいおねるさんでしたが、1892年に結核で亡くなった長男です。1874年生まれだから、17、18歳だったのかしら。バーネットは1849年生まれで、初婚が1873年でした。

  さて、この亡くなった息子のライオネルへの献辞ですけれど、詩が添えられています。それは、引用符に入っていますけれど、引用です。――


"The stars come nightly to the sky;
The tidal wave unto the sea;
Nor time, nor space, nor deep, nor high
Can keep my own away from me.''

(星星は夜ごと空にあらわれる
潮流は海にやって来る
時間も、空間も、深海深みも、天空高みも
私のものを私から離しておくことはできない)

  つまり、この4行はバーネットの自作ではなくて、いまはいわゆるネイチャー・ライティングの作家として有名なアメリカの John Burroughs (1837-1921) の最も有名な詩 "Waiting" の最終スタンザです。六連四行詩の最終連。

"Waiting"   -John Burroughs

Serene, I fold my hands and wait,
Nor care for wind, nor tide, nor sea;
I rave no more 'gainst time or fate,
For lo! my own shall come to me.

I stay my haste, I make delays,
For what avails this eager pace?
I stand amid the eternal ways,
And what is mine shall know my face.

Asleep, awake, by night or day,
The friends I seek are seeking me;
No wind can drive my bark astray,
Nor change the tide of destiny.

What matter if I stand alone?
I wait with joy the coming years;
My heart shall reap where it hath sown,
And garner up its fruit of tears.

The waters know their own and draw
The brook that springs in yonder height;
So flows the good with equal law
Unto the soul of pure delight.

The stars come nightly to the sky;
The tidal wave unto the sea;
Nor time, nor space, nor deep, nor high,
Can keep my own away from me.

  この詩を解説する能力は今ないので、メモとして記しておきます。

  訳者としては、作家自身の個人的な文脈を敢えてはずしたかったのかなあ。でもパーソナルなものがどうしようもなく創作にはあるのですよねー。

  もうちょっと考えてみると、献辞で "To" の相手に献じられているものは本の本体(作品)であって、引用ではない。この引用は添え書きのようなものかもしれませんが、結局のところ、それが個人的なものであったとしても、その個人的なものを垣間見る(個人的なものにあずかる)読者にとっては作品『白い人』のエピグラフのような役割を果たすことになるのではなかろうか。

//////////////////////////////

"Waiting - John Burroughs (1837-1921) :: General Discussion :: The Poetry Archives @eMule.com" <http://www.emule.com/2poetry/phorum/read.php?4,176934,217886> 〔"own" についての議論〕

"JOHN BURROUGHS.; His Religion as Expounded in His Lates Book" New York Times, June 2, 1900 <http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9A05E4D71339E733A25751C0A9609C946197D6CF> 〔バローズが近作に自身のこの詩を引用している〕

The White People (Burnett) - Wikisource <http://en.wikisource.org/wiki/The_White_People_(Burnett)>

Gutenberg E-book of The White People <http://etext.lib.virginia.edu/etcbin/toccer-new2?id=BurWhit.sgm&images=images/modeng&data=/texts/english/modeng/parsed&tag=public&part=all>

『バーネット女史の部屋』 by らいおねる <http://www.geocities.co.jp/Berkeley/1400/>

Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917) etext @Internet Archive <http://www.archive.org/details/whitepeople00burnrich>

 

 

 


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